腕時計(1)
文字数 1,901文字
数日後──
午前中の家事を終えたわたしは、客間で海翔くんの作曲を手伝っていた。
「ここの小節から、ピンとこないんだよな」
海翔くんがギターを弾いていた手を止め、修正だらけの楽譜を見ながらため息をつく。
「やっぱなんか違うな。比呂はどう思う?」
「もしかしたら……思い切って転調してもいいのかも。たとえばだけど、こんなふうに」
わたしは、オルゴールのメロディにならないように気をつけながら、ピアノで少し弾いてみせる。
すると海翔くんが、なるほどねとうなずいた。
「転調か……うん、そうだな。やってみる」
海翔くんはなにかをつかんだらしい。
ギターでさまざまなメロディを試しだす。
──完成した曲は知ってるけど、これは海翔くんの曲。
──海翔くんが自分で思いつかないと……。
──ヒントの出し方、難しいな。どんなふうにリードしていけばいいんだろう……?
思い悩んでいたとき、海翔くんのギターが聞きおぼえのある旋律を奏でる。
──このメロディ……オルゴールのメロディだ……!
「それだよ、それっ!」
「なっ!?」
急に叫んだものだから、海翔くんがギターを落としそうになった。
「お、驚かすなよ……」
「ご、ごめん……」
「でも……今の、やっぱ比呂もいいと思うよな?」
「うん、とってもいい!」
「よし、これでいこう」
海翔くんは嬉しそうに楽譜を手に取り、さっそくメロディを書きとめる。
──よかった。この調子なら、すぐ完成しそう……。
だけど、それはあたり前のことなのかもしれない。
もともとあの曲は、ほかの誰でもない、海翔くんが作ったものなのだから……。
「あ、そろそろバイトだ」
壁時計を見て、海翔くんが立ちあがる。
「ホントだ。急がないとね」
「続きは、また帰ってからってことで」
「うん、わかった。いってらっしゃい」
海翔くんは行こうとしたけれど、立ち止まり、振りかえる。
「あのさ……」
「なに?」
「オーディション、比呂も一緒に出てくれるって……そう思っててもいいんだよな?」
愛想のかけらもない口調。
こういうとき、海翔くんは照れている。
いつの間にか、そんなことが自然とわかるようになっていた。
「もちろん。今さらなに言ってんの?」
小さく笑ってうなずく。
「……だよな。ホント、早く曲作って練習しないと……。ったく、忙しいな」
海翔くんはぶつぶつ言いながら、部屋を出て行った。
──なんだか、かわいいな。
つい、吹き出すように笑ってしまう。
だけど、海翔くんのいなくなった部屋にひとりいると、急に現実へと引きもどされる。
──オーディションか……。
オーディションには海翔くんと出ようと思う。
問題はそのあとだ。きっと、海翔くんはオーディションに合格する。
うまく海翔くんにだけ契約の話がくればいい。
だけど、もしもデュエットでデビューとなれば、大変なことになる。
身元を証明できないわたしには、芸能活動なんかできるはずもない。
わたしは、本当はここにいない人間。
海翔くんはそのことを軽く考えすぎている。
世間とか社会とか、そんなものは、がむしゃらにやればどうにでもなると思っている。
──だから……オーディションが終わったら、すぐにここを去ろう。
──海翔くんがふたりで歌っていくことをあきらめてくれるように……。
そう思った瞬間、ギュッと胸が痛んだ。
──なんだろ……この感じ……。
想像以上に、海翔くんとの別れがつらいのが意外だった。
──ちょっと古葉村家の人たちと仲良くなりすぎたのかな。
苦笑いしながら、鍵盤の蓋を閉じる。
──さてと、買い物に行くとしますか……。
立ちあがりながら、ピアノ横に置いておいた腕時計を取ろうとした。だけど……
──あれっ、変だな……ここに置いたと思ったのに。
そこにあるはずの腕時計がなくなっている。
──確か、ピアノを弾く前に外して……。
──どう考えても、なくなるわけないんだけど。おかしいな……。
音楽スクールに通っている頃に買った、それなりに思い出もある時計だった。
しばらく辺りを懸命に探したけれど、結局、腕時計を見つけることはできなかった。