藍色の瞳(2)

文字数 2,290文字

その日の夜──

わたしは美雨ちゃんの部屋で、算数の宿題を教えていた。



「この式の間違いは、もうわかるよね?」

「えーっと……。あ、ここで引き算したからかあ」



勉強机に向かう美雨ちゃんは、うんうんとうなずきながら式を書きなおす。



「できた! 比呂ちゃん、見て」

「どれどれ……ん、これで正解!」

「やった! じゃ、ちょっと休憩しよっと!」

「え? もう?」

「だって、比呂ちゃんがいれてくれた紅茶、冷めちゃうし」



美雨ちゃんはそう言うと、シュガーポットの砂糖をざくざくとティーカップに入れる。



「美雨ちゃん……砂糖、多すぎるんじゃない?」

「こうするのがいちばん美味しい!」



小学生なのに紅茶好きの美雨ちゃん。

息抜きにリクエストするのは、いつも甘いミルクティーだった。



「ねえ比呂ちゃん、今日のはなんていう紅茶?」

「ダージリンだよ。好きなんだ、この紅茶」

「ふうん……」



美雨ちゃんは紅茶に砂糖もミルクも入れないわたしを不思議そうに眺める。



「それ甘くないよね? そんなのが好きなの?」

「うん、美味しいよ。それより、ほかにわからない問題は?」



すると、美雨ちゃんがニヤッと笑う。



「あとはねー、漢字ドリル。たくさんあるから手伝って」

「それはダメ。漢字は自分で書かなきゃ」

「えーっ、ヤダなあ」

「がんばって」



不満そうにむくれる美雨ちゃんの頬を笑ってつつく。



「じゃ、行くね。海翔くんの部屋に食事運んでくるから」



そう言いながら立ちあがったとき、美雨ちゃんに呼びとめられる。



「比呂ちゃん……」

「どうしたの?」

「お兄ちゃん、バンドで歌えなくなっちゃったでしょ」

「うん……」

「でも……比呂ちゃんがいれば、大丈夫だよね?

お兄ちゃんはアーティストになること、あきらめないよね?」



訴えるような切実な目を向けられる。



「美雨ちゃん……」



美雨ちゃんを安心させたかった。



だけど今のわたしは、美雨ちゃんになにを言ってあげればいいのかわからなかった。




   ※   ※   ※




次の日。

学校へ行く美雨ちゃんを見送ったあと、そのまま庭にまわって掃除をはじめた。



──今日も暑くなりそうだな。



まぶしい日差しに目を細めながら、ホウキで石畳を掃く。

ホウキが地面にあたるかたい音を聞きながら考えるのは、やっぱり海翔くんのことだった。



──わたしが海翔くんの誘いを断って、あの曲が完成しなかったら、



海翔くんがチャンスを逃すってこと……?



──アーティストの道が遠のいてしまうってこと……?



思いつめていたのか、気がつけば肩にギュッと力が入っている。



──まさか……ね。



ひとつ、はあっと大きく息を吐く。



──海翔くんの才能なら、なにがあっても大丈夫。

──今回のオーディションを逃したとしても、チャンスはたくさんやって来るはず……。



そう自分に言い聞かせたものの、どうしても心の中の不安が打ち消せない。

長い間、音楽スクールにいて多くのミュージシャン志望の子を見てきた。

だから本当はわかっている。

ひとつひとつのチャンスの重みが。


もちろん、運だけではどうにもならないけれど、才能だけでもどうにもならない。

歌の世界はそういうところだ。

タイミング、巡り合わせ、人との出会い……

いろんなものが絡みあって、7年後にあのハーヴがいる……。



「わたし、どうすれば……」

「比呂ちゃん?」

「えっ!?」



ハッと我に返ると、流風くんがすぐそばにいた。



「流風くん……。あっ、もうすぐ先生がいらっしゃるんじゃないの?」

「うん。だからカモミールティーを淹れようと思って下りてきたんだ」

「わたしが用意して運んであげようか?」

「自分でやるから大丈夫。それより比呂ちゃん。さっき、海翔がどうとか……なにぶつぶつ言ってたの?」

「ウソっ、わたしが?」

「うん」



──心の声、しゃべってたのか。恥ずかしいな……。



「比呂ちゃん、悩んでるんだねえ」



からかうように顔をのぞき込まれる。



「おっ……大人はいろいろあるの!」



ちょっとムキになって言うと、流風くんが笑う。

朝の日差しの下で見る流風くんの笑顔には、思わず見入ってしまうほどの透明感がある。



──流風くんの目、日の光にあたると深い藍色になるんだな……。

髪も栗色でサラサラだし、肌の色も信じられないくらい白い……。



美雨ちゃんとはまた違う、不思議な魅力が流風くんにはある。

そんな容貌のせいなのか、その笑顔も眼差しもなんとなく大人びて見える。



──わたしよりずっと年下なのに……。


「じゃあ、ボク、キッチンに行くよ」

「あ……うん」



流風くんがくるりと背を向け、走りだす。



──流風くんって、やっぱり不思議な子……。



小さな背中を目で追っていると、ふいに流風くんが立ち止まる。



「あ、そうだ」



振りかえり、パタパタともどってくる。



「流風くん? どうかした?」

「あのね」



流風くんは手を後ろに組んで、ちょっと得意げな様子で言う。



「いろいろ迷うときはね。自分の心に聞いてみればいいんだよ」



そしてまた、さっきの大人びた笑顔を見せた──。
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