新しい場所(3)

文字数 1,904文字

「なにがあったの?」



わたしが聞くと、少し間があいてから、海翔くんはのんびりと口を開いた。



「……あのさ。じいさんが比呂に家の仕事しろって?」



てっきりグチがはじまるんだと思っていたら、海翔くんはそんなことを言った。



「まさか。わたしからお願いしたんだ。

短期バイトが終わったから、今のところ無職なんですって、ちょっとウソついちゃったんだけどね」

「……いくらで引き受けたの?」

「お金なんかもらうわけにはいかないよ。食費すら入れてないのに」

「マジ? 完全タダ働き?」

「タダじゃないって。ここに置いてもらってるんだから……。

わたし……最初は働かせてもらうなんて、絶対ムリな気がしてたんだ。

素人レベルの家事しかできないし……。でも、海翔くん言ったでしょ?

自分を赤ちゃんだと思ってればいいって。

それで、吹っ切れたみたい。今は思いつくこと、ゼロからなんでもやってみるしかないかなあって」

「ふうん……」



海翔くんはしばらく黙っていたけれど、やがてふうっと息を吐いた。



「ゼロからか……。ある意味、俺もそうなんだよな」

「えっ?」

「バンド、やめるんだ」

「それ……どういうこと?」

「久しぶりにメンバーに呼び出されたから、活動再開かと思いきや……。

人の顔見るなり、バンドから抜けてくれ……だもんな」



海翔くんは苦笑いして、ソファに立てかけているギターケースに手を置いた。



「海翔くん……」



──朝、約束があるって言ってたっけ。

──きっと練習だと思って、楽しみに行ったんだろうに……。



「なんか、俺っていろいろ注文うるさくてやりにくいらしい。そこまでこだわるなら、ひとりでやれ……だってさ」



さばさばと海翔くんは言った。

その様子はいつもと同じように飄々としていて、なにを考えているのかわかりにくい。

だけど、一緒に音楽をやっていこうと思っていた仲間に、そんなことを言われてこたえないわけがない。  

グチを聞いてくれとわたしを呼びとめるくらいだ。

よほど落ちこんでいるんだろうと思う。



──励ましてあげられるといいんだけど……。

──でも、なにを言えば……。



「あーあ、今日は久々に合わせられると思ったのにな」



海翔くんが、ぼんやりと天井を眺めながらつぶやいた。



──本当に音楽が好きな子なのに……。



わたしはただ、黙って海翔くんのそばにいることしかできなかった。



   ※   ※   ※



ひととおり掃除も終え、玄関ホールを通りかかったときだった。



「ただいま」



出かけていたマサミチさんが、ちょうど帰ってくる。



「おかえりなさい。クラリネット教室、どうでしたか?」

「楽しかったですよ。先生に上達が早いって、褒められたしね」

「さすがですね! あ、マサミチさん、お茶でも淹れましょうか?」

「ありがとう。でも、さっき友だちとカフェに寄ってきたから。ところで……海翔、なにかあったの?」



マサミチさんが声を潜めて言う。

サンルームの仕切りのドアは開け放たれていて、ソファに座り、ぼんやり庭を眺めている海翔くんの姿が見えた。



「じつは……」



わたしは海翔くんのバンドから外されてしまったことを、マサミチさんに説明した。



「そう……。ただでもスランプだったみたいなのに、大丈夫かな」



海翔くんのほうを見やりながら、マサミチさんが顔を曇らせる。



「帰ってきてからずっと元気がなくて、わたしも心配なんです」


──海翔くんはまだ19歳。

──これから新しいメンバーを見つければいいとは思うけど……。

──今は思い描いていた道が、絶たれたような気持ちになってるのかも……。



どんなに素質があっても、それが心の強さに結びつくとは限らない。

もしかしたら、理想を実現できる才能があればあるほど、思いどおりにならない現実に遭うともろいのかもしれない。



「あいつ、ああ見えて溜めこむタイプだから。なにかで気晴らしできる器用さもないし……」

「気晴らし……?」


──そうだ。励ますことはできなくても、気晴らしくらいなら……!


「あのっ、マサミチさん、お夕飯の支度までには帰ってくるので、海翔くんとちょっと出かけてきてもいいですか?」

「それはかまわないけど……どうしたんです?」

「気晴らし、行ってきます!」



わたしはそう言うとすぐに、サンルームへ向かった。


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