海色の未来

文字数 3,570文字




梅雨が明けた、ある暑い日。

わたしは朝から引越しの作業に追われていた。



「あ、ルミ子さん! そのダンボールは重いからわたしが……」

「このくらい平気よ」



ルミ子さんは店を抜けてきて、わたしの引越しを手伝ってくれている。



「引越し屋さん来るのって、午後だっけ?」

「はい」

「ホントに東京にもどっちゃうのよね。寂しいな……」

「すみません。いろいろ仕事も教えていただいたのに」



すると、ルミ子さんは笑顔で首を横に振る。



「それは気にしないで。息子も帰ってきたし……。お別れは寂しいけど……

やっぱり、本気でやりたいことがあるなら、ここにいちゃダメよ」

「ルミ子さん……」




そのとき、ルミ子さんのスマホが鳴った。




「あ、ちょっと失礼するわね。……もしもし?」



ルミ子さんが電話を受けると、どうやら息子さんからのようだった。

手短に話を終えたルミ子さんは、申し訳なさそうに振りかえる。



「比呂ちゃん、ごめん。ちょっと息子の手に負えない鑑定の依頼が入ったみたいで……」

「どうぞ行ってあげてください。ここはもう、わたしひとりで大丈夫ですから」

「お見送りもしたかったのに……」

「落ち着いたら、ルミ子さんのお店に必ず顔を出します」

「うん……そうよね。またいつでも会えるわね。
わたしが比呂ちゃんをたずねてもいいんだし」

「はい、ぜひ」

「比呂ちゃん……向こうに行っても、元気でがんばって」



ルミ子さんは少し涙ぐみながら、わたしの肩を優しく抱いてくれた。






荷造りも終わり、あとは引越し業者のトラックを待つばかりだった。



──これでよしっと。



軍手を外しながら、ぐるりと居間を見まわす。



──この部屋も今日で最後か……。



東京にもどることを美雨ちゃんに伝えたのは、引越しの手はずをすべて整えたあとだった。

美雨ちゃんは寂しがったけれど、最後にはわたしを応援すると言ってくれた。



今度は逃げたくない。

もしかしたら、夢は最初に思ったとおりの形にはならないかもしれない。

だけど、歌だけはやめずにいよう。


それが後悔せずに生きられる、たったひとつの方法だってわかったから……。

そして、いつか海翔くんへの気持ちも忘れることができたとき……

新しいわたしで、海翔くんに会えたらいいな……。



そのときだった。

バッグの中でスマホが鳴った。



──電話……。美雨ちゃんかな?



スマホを取り出すと、画面に知らない番号が表示されている。



──美雨ちゃんじゃない……誰?



思いあたる人もいないまま、電話を受ける。



「もしもし……?」



間が空いてから、聞きおぼえのある声が耳に響く。



『俺……海翔』


──え……海翔……くん?



胸がギュッと締めつけられる。



「ウソ……ど、どうして?」

『美雨からこの番号聞いた』


──み、美雨ちゃん!? 


「まだ言わないでって言ったのに……!」

『らしいな。でも、あいつ、我慢できなかったんだって』

「そんな……美雨ちゃん……ひどい……」

『ひどいのはどっちだよっ!』

「わっ!?」



いきなりの怒鳴り声にビクッと身体がすくむ。



『なんですぐ俺に連絡してこない!?』

「す、すぐって……わ、わたしにも心の準備ってものが……」

『はあ? そんなの知るわけねえし!』


「そ、そんなのって……ちょっと! もう少しマシな言い方あるでしょ!?」

『こっちはかなりマシに言ってるつもりだけどな!?』

「それでマシなの? ウソっ、信じらんない!」



すっかり険悪になった雰囲気に、わたしたちはお互い黙ってしまう。

電話の向こう側から、ムッとした気配が伝わってくる。



──なんだろ……海翔くん、性格あんまり変わってないの? 

──成長してない。大人げない。もう26でしょ? あの頃と違って、同い年なのに……っ!



意地になって口をつぐんでいると、先に口を開いたのは海翔くんだった。



『比呂って……相変わらず大人げねえな』

「なっ! ど、どっちが──」

『俺が……俺がさ……どれだけ……』


──え……?



辛そうに絞りだされた声に胸が音を立てた。



「もしかして……ずっとわたしを待ってて……くれたの?」



恐る恐る訊いたけれど、海翔くんは答えてくれない。



「あの……海翔くん?」

『……俺、もう比呂と同い年だ』

「うん……」

『フツーここまで人、待たせるってありえねえし』


──海翔くん……。変わってない……。



海翔くんらしいぶっきらぼうな言い方に、涙がこぼれそうになる。



──ホントに……こんなに長い間、わたしのことを……?


『……ごめん……ごめんなさい』


嬉しくて、だけどそれ以上に申し訳なくて、ほかの言葉がなにも思い浮かばない。


『ずっと比呂を探してた。
いつ越してくるんだろうと思って、何度もアパートの前まで通った。

デビューしてからは音楽関係のツテ使って、スクールに問い合わせたり……
思いつくことはなんでもやった。

だけど見つけられなかった……。

そのうち、比呂と出会ったのが、夢だか現実だか自信もなくなってきて……

アパート見に行くことも、怖くてできなくなった』


「海翔くん……」

『でも……見つからなくてあたり前だよな。

苗字……昔のと違ってんじゃねえか』

「あ……」

『そんなのありか?』

「え……っと……」


──そ、そうだった……。海翔くんに会ったときのわたしは、苗字が変わったばかりで……。



気まずい沈黙が流れる。



「み、美雨ちゃんから聞いたんだよね? う、うん、じつは……そう、いろいろ事情が……」



しどろもどろに説明をはじめたけれど……



『でもまあ……それはもう、どうでもいいや』



 あっさりと海翔くんが言う。



「え、海翔くん……怒ってないの?」


『よく考えたらさ、俺が好きになったのは今の比呂なんだし。

ムリして俺と会う前の比呂を探す必要はなかったんだよな」

「海翔くん……」

『ま、そんなことも比呂を見つけられたから言えるわけで……だから……』

「だから……?」


『すぐに会いに来いよ』

「なっ……いっ、イギリスまで!?」

『そうだよ。こっちは7年待ったんだ。そのくらいして当然じゃねえの?』

「そんなのムチャクチャだよ!」

『……なんて。冗談』



電話越しに、海翔くんの笑い声がする。



「もう……冗談って」

『俺、下に来てる』

「下? 下って……?」

『アパートの下』

「え……ええっ!?」

『その部屋から見えると思うけど』


──海翔くんが……?



戸惑いながら部屋の窓を開けて、ベランダに出た。








アパートの前で、スマホを手にした海翔くんがわたしを見あげていた。



──海翔くんだ……。



26歳の海翔くんは素直にカッコいいと思ったけれど、相変わらずファッションには無頓着みたいで、デニムのシャツに、くたくたのパーカーをはおっている。

そしてなにより、怒ったような不機嫌そうな表情が19の頃と少しも変わっていない。



「海翔くん……」



すると海翔くんが急に顔をほころばせ、わたしに向かって手をあげる。



「よっ。久しぶり」

「なに……そのテキトーな挨拶」

「……泣くなよ」

「泣きたくないよ……だけど……」



気がつけば、スマホを耳に押しあてたまま泣きじゃくっていた。

わたしたちは、しばらく見つめあっていたけれど、やがて、海翔くんがしびれを切らしたように言う。



「あのさ……そろそろ、そっち行っていい?」

「……」

「ちょっと、聞いてんのか?」

「……」

「おい、比呂?」



海翔くんが心配そうにわたしの様子をうかがう。



──困らせたらダメだよね……。



なんとか泣くのをこらえて涙を手の甲で拭き、海翔くんに笑顔を向ける。



そして──



「海翔……!」



わたしは彼の名前を呼んだ。

7年分の想いをこめて──。

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