歌(5)

文字数 1,617文字

夕食の時間になっても、海翔くんは食堂に下りてこなかった。



「海翔のやつが食事時に来ないなんて珍しいな。明日は雨に違いないね」



マサミチさんが、おかしそうに笑いながら言う。



「何度も呼んだんだけど、お兄ちゃんこっちも見ないで、『んー、わかったー』ばっかりなんだよ」

「ボクも海翔の部屋をのぞいたんだ。ベッドで跳ねても、ギターさわっても、全然気がつかなかったよ。

いつもだったら、勝手に入ってくんなって怒鳴られるのに」



美雨ちゃんと流風くんが口々に言うと、マサミチさんはさらに笑顔になる。



「それだけ曲作りに夢中なんだよ。久しぶりにどんなものができあがってくるのか楽しみだね」

「うん。ボク、海翔の作る曲、好きだよ」

「わたしも! お兄ちゃんの歌が大好き!」


──海翔くんがまた夢に向かって動きだしたことが、みんな嬉しくてたまらないみたい。

──もちろん、あれだけの才能があれば誰だって応援したくなる。

──それは、わたしにもわかるんだけど……。


「比呂さんが海翔のスランプを終わらせてくれたそうだね? 本当にどうもありがとう」

「い、いえ……偶然というか……わたし、なにもしてないんです」

「これからも海翔の力になってやってください」

「え……っ」


──美雨ちゃんだけじゃなく、マサミチさんまで……。



責任、と言えば大げさだけど、それに近いものを感じてしまう。



「……あ、わたし、あとで海翔くんの部屋に食事を持っていきますね。

なにも食べないんじゃ、やっぱり作業もはかどらないと思うし……」



とっさにそう口が動き、わたしは返事をごまかしていた。







夕食のあと、海翔くんの食事をトレイにのせ、彼の部屋へ向かう。



──海翔くんの力にはなりたい……。

──でも、かかわりすぎちゃいけない。

──海翔くんはきっとこれから、たくさんの人に知られるようになっていく。

──そんな海翔くんのそばに、わたしみたいな身元がはっきりしない人間がいることが知れたら……いったい、どんな騒ぎになるかわからない……。



「比呂ちゃん」



後ろから声をかけてきたのは、流風くんだった。



「ボクも一緒に海翔の様子、見に行きたい」

「いいけど、海翔くんの邪魔したらダメだよ」

「平気だって。海翔、なにしても気づかないんだから」



流風くんがニコッと笑う。



「食事を置いたら、すぐ部屋を出るからね」

「うん、わかってる」



流風くんとふたり、廊下を歩きだす。



──そういえば流風くん、夕食の時間まで、ずっと姿を見なかったな。


「流風くん。今日はどこに行ってたの?」

「植物園だよ。スウェーデン語の先生と会ってたんだ。遠足がてら、たまには外で授業しようかって」

「スウェーデン語……? そんなのまで勉強してるの?」

「でも、ほとんどマスターしてるから、スウェーデン語の授業はたまに受けるだけ。少しは会話しとかないと忘れちゃうからね」

「な、なるほど……」


──たぶん英語、フランス語あたりはもう完璧なんだろうな。

──想像以上の天才少年だ……。


「ボクね、スウェーデン語の単語が好きなんだ。ちょっとカッコいいと思わない?」

「えっと……ごめん。知らなすぎて、カッコいいとか全然わかんない……」

「そうだなあ、たとえば……あ、前に海翔がバンドの名前つけようとしてて、スウェーデン語で、なんかよさそうなのないかって訊かれたんだ。

そのときに教えてあげたヤツなんだけど」

「へえ、どんなの?」

「ハーヴだよ」

「え……」



──ハーヴ……?



すぐに思い出したのは、シンガーソングライターのハーヴだった。

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