居場所(4)
文字数 2,772文字
どのくらい泣き続けていたのか……。
しばらくすると、気持ちもだいぶ落ち着いていた。
──お水、もらって来よう……。
わたしはベッドから降り、部屋を出た。
1階に行くと、廊下にキッチンの明かりがもれていた。
──海翔くんが帰ってきたのかな。
パジャマにはおったカーディガンを肩にかけ直しながら、キッチンに入った。
中はシンク近くのペンダントライトだけが点いていて、海翔くんが冷蔵庫をがさごそとあさっていた。
「海翔くん、お疲れさま」
「あれっ、比呂。もしかして、起こした?」
冷蔵庫の開いたドアに手をかけたまま、海翔くんが振り向く。
「ううん。海翔くん、こんな時間まで大変だね」
「俺的には、早朝に出るよりマシだけどね」
そう言いながら、まだ冷蔵庫をのぞき込んでいる。
「なにか探してるの?」
「夕方のあれ……サンドイッチ」
「え!」
「……残しとくって、言ってなかったっけ」
不機嫌そうな海翔くんに、じーっと見つめられる。
「え……あ、ああ。流風くんが見つけて……食べちゃった」
「なっ……!」
みるみるうちに、海翔くんの表情が険しくなる。
「流風……あいつ……!」
──ウソ。結構、本気で怒ってる……。
「あの……また作るから……」
なだめるように言うと……
「マジで……作ってくれんの?」
「うん……」
「……なら、許してやるか」
海翔くんはぼそっとつぶやき、冷蔵庫のドアを閉める。
──ここまで気に入ってもらえると、やりがいがあるな。
なんだか少し笑いそうになる。
「じゃあ、明日作ってあげるね」
「うん……それよりさ、比呂はキッチンになんの用?」
「あ、忘れてた。お水もらいに来たんだった」
「なら、カモミールティーでも淹れようか? 流風が騒いでたから買ってきたんだ」
海翔くんがカウンターテーブルの上に置いてあったコンビニの袋を開けると、カモミールティーの箱がいくつも見えた。
「わ……たくさん。でも家庭教師の先生用だよね。いいの?」
「なんかこれ寝つきがよくなるんだろ? 淹れてやるよ。俺も飲むし」
「じゃあ……1杯いただこうかな」
「ああ」
海翔くんはシンクのところへ行き、ヤカンに水を入れる。
「わたしカップの用意しとくね」
「いいや。座ってて」
「……そう? ありがとう」
わたしは言われるがまま、カウンターテーブルのそばにある椅子に腰を下ろした。
コンロにヤカンが置かれ、ガスの青い炎が薄暗いキッチンで揺れはじめる。
キッチンの大きな出窓の向こうでは、月明かりに照らされた庭の木々がうっすらと光っていた。
──今頃19のわたしは、東京でなにをしてるんだろう。
──レッスンとバイトで疲れきって、ぐっすり眠ってるのかな……。
そんなことをぼんやり思う。
──夢は叶わないって……今のうちに違う道を探しなさいって、教えられたらいいのに。
19歳のわたしに26歳のわたしが会うわけにはいかないから、それは無理な話だろう。
でも、それができれば、今東京にいるわたしは、これからもう少しマシな人生を送れるのかもしれない……。
「比呂……目が腫れてるな」
背中を向けたまま、海翔くんが言う。
「あ、うん……」
ペンダントライトのオレンジがかった明かりでも、さっきまで泣いていたのが海翔くんにばれてしまっていた。
「なかなか割り切れなくて。ぐずぐず泣いてる場合じゃないんだけど……みんなに迷惑かけないように、これからのこと考えないといけないのにね」
わたしが言ったとたん、海翔くんが笑いだす。
「海翔くん……?」
「なに、それ? 超まじめ」
海翔くんが振りかえり、シンクにもたれる。
「まじめ?」
「だってさあ……」
ややしばらく笑い続けてから、海翔くんはわたしを見る。
「こんなわけわかんねえ目にあってんのに、人の迷惑がどうのこうのとかさ。マジで俺、笑いそう」
──笑いそう……? っていうか、もうすでに笑われてるし。
年下の男の子相手に、ちょっとムッとしてしまう。
「そりゃあ考えるよ。海翔くんはまだ若いし、その性格だからピンとこないかもしれないけど」
「その性格?」
「あっ、その……マイペース? 大ざっぱ? テキトーっていうか……いや、いい意味でね」
「まったくいい意味の気がしねえけどな」
「とっ、とにかく、わたしは大人だから! どんなときも、いろいろちゃんと考えないといけないの!」
「すげー! それマジで言ってる?」
あきれてるのか感心してるのかわからないけれど、海翔くんが本気で驚いている。
「もういいよっ」
ガタンと椅子から立ちあがる。
「ははっ、それ、大人の態度?」
「うっ……」
──また笑われてしまった……。
「とにかくさ……」
「……なに?」
「比呂は自分を赤ちゃんだと思ってればいいんじゃないの」
「あ、赤ちゃん……?」
「赤ちゃんだったら、先のことなんて考えないのも、知り合いがいないのもあたり前だし。
なんにもできなくてあたり前。実際、比呂は7年後の世界にぜんぶ置いてきちゃったわけなんだからさ。
それって、赤ん坊同然だと思わない?」
「え……」
ちょっと乱暴な言いかただけど、そのとおりかもしれない。
今のわたしは、これまでのすべてがリセットされたようなものだ。
意識と記憶があるだけ、まだマシだと思えばいい。
取りもどせないものをあれこれ考えるより、今のわたしはゼロなんだと……
そう腹をくくればいいだけなのかもしれない……。
「あれ……水入れすぎたかな。なかなか沸かねえ」
腕組みをした格好で、海翔くんがコンロをのぞき込む。
ふいに、音楽スクール時代に麻美の部屋へ遊びに行ったときのことを思い出す。
麻美はレッスンで歌いっぱなしだったわたしに、喉にいいカリン茶を淹れてあげるとキッチンに立った。
カリンの優しい香りにお湯の沸く音……。
──お茶を待つ時間が、なんとなく幸せで嬉しかったっけ……。
静かなキッチンに、ヤカンの水がぽこぽこいう音だけが響く。
──なんだかホッとする……。
気がつけば、さっきまで不安と心配でガチガチだった心がほぐれている。
──今夜だけ、海翔くんの気づかいに甘えさせてもらおう……。
いつの間にか、わたしは柔らかく微笑んでいた。
しばらくすると、気持ちもだいぶ落ち着いていた。
──お水、もらって来よう……。
わたしはベッドから降り、部屋を出た。
1階に行くと、廊下にキッチンの明かりがもれていた。
──海翔くんが帰ってきたのかな。
パジャマにはおったカーディガンを肩にかけ直しながら、キッチンに入った。
中はシンク近くのペンダントライトだけが点いていて、海翔くんが冷蔵庫をがさごそとあさっていた。
「海翔くん、お疲れさま」
「あれっ、比呂。もしかして、起こした?」
冷蔵庫の開いたドアに手をかけたまま、海翔くんが振り向く。
「ううん。海翔くん、こんな時間まで大変だね」
「俺的には、早朝に出るよりマシだけどね」
そう言いながら、まだ冷蔵庫をのぞき込んでいる。
「なにか探してるの?」
「夕方のあれ……サンドイッチ」
「え!」
「……残しとくって、言ってなかったっけ」
不機嫌そうな海翔くんに、じーっと見つめられる。
「え……あ、ああ。流風くんが見つけて……食べちゃった」
「なっ……!」
みるみるうちに、海翔くんの表情が険しくなる。
「流風……あいつ……!」
──ウソ。結構、本気で怒ってる……。
「あの……また作るから……」
なだめるように言うと……
「マジで……作ってくれんの?」
「うん……」
「……なら、許してやるか」
海翔くんはぼそっとつぶやき、冷蔵庫のドアを閉める。
──ここまで気に入ってもらえると、やりがいがあるな。
なんだか少し笑いそうになる。
「じゃあ、明日作ってあげるね」
「うん……それよりさ、比呂はキッチンになんの用?」
「あ、忘れてた。お水もらいに来たんだった」
「なら、カモミールティーでも淹れようか? 流風が騒いでたから買ってきたんだ」
海翔くんがカウンターテーブルの上に置いてあったコンビニの袋を開けると、カモミールティーの箱がいくつも見えた。
「わ……たくさん。でも家庭教師の先生用だよね。いいの?」
「なんかこれ寝つきがよくなるんだろ? 淹れてやるよ。俺も飲むし」
「じゃあ……1杯いただこうかな」
「ああ」
海翔くんはシンクのところへ行き、ヤカンに水を入れる。
「わたしカップの用意しとくね」
「いいや。座ってて」
「……そう? ありがとう」
わたしは言われるがまま、カウンターテーブルのそばにある椅子に腰を下ろした。
コンロにヤカンが置かれ、ガスの青い炎が薄暗いキッチンで揺れはじめる。
キッチンの大きな出窓の向こうでは、月明かりに照らされた庭の木々がうっすらと光っていた。
──今頃19のわたしは、東京でなにをしてるんだろう。
──レッスンとバイトで疲れきって、ぐっすり眠ってるのかな……。
そんなことをぼんやり思う。
──夢は叶わないって……今のうちに違う道を探しなさいって、教えられたらいいのに。
19歳のわたしに26歳のわたしが会うわけにはいかないから、それは無理な話だろう。
でも、それができれば、今東京にいるわたしは、これからもう少しマシな人生を送れるのかもしれない……。
「比呂……目が腫れてるな」
背中を向けたまま、海翔くんが言う。
「あ、うん……」
ペンダントライトのオレンジがかった明かりでも、さっきまで泣いていたのが海翔くんにばれてしまっていた。
「なかなか割り切れなくて。ぐずぐず泣いてる場合じゃないんだけど……みんなに迷惑かけないように、これからのこと考えないといけないのにね」
わたしが言ったとたん、海翔くんが笑いだす。
「海翔くん……?」
「なに、それ? 超まじめ」
海翔くんが振りかえり、シンクにもたれる。
「まじめ?」
「だってさあ……」
ややしばらく笑い続けてから、海翔くんはわたしを見る。
「こんなわけわかんねえ目にあってんのに、人の迷惑がどうのこうのとかさ。マジで俺、笑いそう」
──笑いそう……? っていうか、もうすでに笑われてるし。
年下の男の子相手に、ちょっとムッとしてしまう。
「そりゃあ考えるよ。海翔くんはまだ若いし、その性格だからピンとこないかもしれないけど」
「その性格?」
「あっ、その……マイペース? 大ざっぱ? テキトーっていうか……いや、いい意味でね」
「まったくいい意味の気がしねえけどな」
「とっ、とにかく、わたしは大人だから! どんなときも、いろいろちゃんと考えないといけないの!」
「すげー! それマジで言ってる?」
あきれてるのか感心してるのかわからないけれど、海翔くんが本気で驚いている。
「もういいよっ」
ガタンと椅子から立ちあがる。
「ははっ、それ、大人の態度?」
「うっ……」
──また笑われてしまった……。
「とにかくさ……」
「……なに?」
「比呂は自分を赤ちゃんだと思ってればいいんじゃないの」
「あ、赤ちゃん……?」
「赤ちゃんだったら、先のことなんて考えないのも、知り合いがいないのもあたり前だし。
なんにもできなくてあたり前。実際、比呂は7年後の世界にぜんぶ置いてきちゃったわけなんだからさ。
それって、赤ん坊同然だと思わない?」
「え……」
ちょっと乱暴な言いかただけど、そのとおりかもしれない。
今のわたしは、これまでのすべてがリセットされたようなものだ。
意識と記憶があるだけ、まだマシだと思えばいい。
取りもどせないものをあれこれ考えるより、今のわたしはゼロなんだと……
そう腹をくくればいいだけなのかもしれない……。
「あれ……水入れすぎたかな。なかなか沸かねえ」
腕組みをした格好で、海翔くんがコンロをのぞき込む。
ふいに、音楽スクール時代に麻美の部屋へ遊びに行ったときのことを思い出す。
麻美はレッスンで歌いっぱなしだったわたしに、喉にいいカリン茶を淹れてあげるとキッチンに立った。
カリンの優しい香りにお湯の沸く音……。
──お茶を待つ時間が、なんとなく幸せで嬉しかったっけ……。
静かなキッチンに、ヤカンの水がぽこぽこいう音だけが響く。
──なんだかホッとする……。
気がつけば、さっきまで不安と心配でガチガチだった心がほぐれている。
──今夜だけ、海翔くんの気づかいに甘えさせてもらおう……。
いつの間にか、わたしは柔らかく微笑んでいた。