蝉しぐれ(3)

文字数 2,060文字

バイトへ行く海翔くんの見送りに、玄関先まで出てきた。



「じゃ、行ってくる」

「うん。いってらっしゃい……」


──結局、言えなかった……。



立ち去る海翔くんを見やりながら、しばらくその場に立ちつくしてしまう。

引き伸ばしても仕方ないのに、どうしても勇気が出せなかった。



──でも……夜勤が終われば、あとはずっと家にいるはずだし……。

──今日じゃなくても、明日、言えばいいんだ。



そう思うと、少しだけ気が楽になる。

とそのとき──



「比呂ちゃーん、見てもらいたいものがあるのー! ちょっと来てえー!」



2階のリビングの窓から、美雨ちゃんが大声でわたしを呼んだ。



「え? あ、はーい!」



──美雨ちゃん、どうしたのかな?

──いつにも増して楽しそう……。



きっとなにかいいことがあったんだろうと思いながら、家の中にもどった。



   ※   ※   ※



リビングに入ると、テーブルでパンフレットを見ていた美雨ちゃんとマサミチさんが顔をあげる。



「あ、比呂ちゃん来たー! 早くこっちー!」



上機嫌の美雨ちゃんがかけ寄り、わたしの手を引く。



「比呂さん、わざわざすみません」



マサミチさんもニコニコとわたしに笑顔を向ける。



「いえ、なにかご用ですか?」

「まあ、とりあえずこちらへ」

「はい」


──マサミチさんも美雨ちゃんにおとらず嬉しそう……。



マサミチさんの向かい側に腰を下ろすと、美雨ちゃんもわたしの隣にちょこんと座り、



「お兄ちゃんにはヒミツだよ」



と人差し指を口にあてる。



「秘密?」

「うん……あれ? おじいちゃん、流風は?」

「今、お風呂に入ってる。あがったらすぐに来ると思うよ。で、比呂さん。とりあえずこれを見てくれるかな」

「あ、はい」



マサミチさんの差し出したパンフレットを手に取る。



──えっ……?



表紙の写真を目にしたとたん、言葉を失う。

それは、オルゴールの店のパンフレットだった。



「比呂ちゃんはどう思う?」

「美雨ちゃん……これは……?」

「オリジナルの曲でオルゴールを作ってくれるお店なんだって。おじいちゃんが教えてくれたんだよ」

「海翔が今度のオーディションに合格したら、お祝いになにかプレゼントしたいって美雨に相談されましてね。

それなら海翔がオーディションで歌う曲をオーダーメイドのオルゴールにして、みんなからという形で贈ったらいいんじゃないかと」

「そう……ですか……」


胸が鈍い音を立てはじめ、パンフレットを持つ手が震えそうになる。


「わたし、すっごくいいアイデアだと思うんだ! 比呂ちゃんは?」


美雨ちゃんがわたしの顔をのぞき込む。


「う、うん……海翔くん、喜びそう……」

「だよねっ!」

「まあ、すべてオーディションに通ったらということで、かなり気の早い話なんですが……」


照れくさそうにマサミチさんが言う。


「大丈夫だよ! お兄ちゃんは絶対合格する!」

「美雨はいやに自信満々だね?」

「お兄ちゃんが今作ってる曲、メチャクチャいいから」

「あれ? いつの間に聞いたんだい?」


「へへ……気になったからお兄ちゃんの部屋をちょっとのぞいて……」

「こら。立ち聞きはよくないよ」

「だって……心配だったんだもん」


──美雨ちゃん……。



大好きなお兄ちゃんに絶対に夢を叶えてもらいたい気持ちと……

自分のせいで海翔くんが東京に行かなかったのを申し訳なく思う気持ち……

そのどちらもが、美雨ちゃんに立ち聞きをさせてしまったんだろう。



──それだけ、美雨ちゃんは海翔くんを思いやってるってことだよね……。


「でも、お兄ちゃんはもう大丈夫。あの曲で合格するに決まってる」

「ああ、そうだね」



マサミチさんが微笑みながらうなずく。



「比呂ちゃん、どのケースにするか選ぼうよ」

「えっ……う、うん……」



美雨ちゃんと一緒に、パンフレットのページをめくる。



「……どれもきれいだね」



わたしが言うと、美雨ちゃんが困った顔をする。



「そうなんだ。ホント、迷っちゃうよ」

「美雨、あと流風の意見も訊かないと」

「あー、そうだった。でも流風っていろいろこだわりがうるさそう」

「こんなことで流風とケンカしないんだよ?」

「もう、わかってる!」



ふたりが楽しそうに笑いあう。



──……海翔くんが作っているのは、オルゴールの曲……。



もちろん、そんな大事なことを忘れたときなんてないけれど……

今、目の前で起こっている出来事に、その事実をあらためて突きつけられた気がした。



──そうだよね……。悩む必要なんてなかったんだ……。



わたしの心は、ゆっくりと答えを出しはじめていた。


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