第五章 心の支え 第6話

文字数 2,972文字

 夜になると、いつも薄暗い海の底は少しだけ静まり返って、寂しさが漂います。しかし、今日の人魚のお城は、そんな夜の気配とは無縁で、城の貝殻や珊瑚はピカピカ光って、たくさんの魚が集まり、それはそれは賑やかでした。

 今日は海底のみんなが待ちに待った音楽会の日です。のど自慢、演奏家、踊り手から、観客まで、たくさんの人魚と魚がお城に集まってきました。人魚の姫たちも、普段から頭につけているベールや飾りの上に、さらに海藻や貝殻、真珠を飾って、華やかに装いました。

 例の末の姫は銀色の髪を緩く編んで、庭に飾っていたフォークやペンや煙管などをそこへ挿しました。破けた皮の手袋を片方だけ手にはめて、太い麻縄でできた網の肩掛けにしました。尾ひれの牡蠣の飾りに欠けたお皿を挟んでいます。

 海の中では見ないようなものをまとったその姿は、姉姫たちの目にはいささか滑稽に映りました。ほかの魚たちも珍しいとは思っても、とてもいいとは思いませんでした。しかし本人にとっては、この上ない装いでした。

 それに、彼女はエルフリーデが化けた祖母に唆されたとおり、今夜お城を抜け出して魔女の所へ行くつもりでした。そのまま地上へ行くのですから、人間の道具をいくつか持っていけば、役に立つかもしれないと思っていたのです。

 音楽会が始まりました。末の姫は一番最初に歌いたいと申し出ていましたから、最初にお城の前の大きな岩場へ出て歌いました。歌声が見事であったため、集まった人魚や魚たちは背びれや尾ひれをしきりに揺らして賞賛しました。姫の祖母は、やっと孫娘が愚かな幻想から覚めたと安心するあまりに涙を見せました。父王も同じでした。

 姫は観客の賞賛を受けるのもそこそこに引っ込んでしまいました。そしてしばらく姉姫たちの歌を聞いていましたが、みんなが姉姫の歌に夢中になっているすきを見て、そっとその場を離れました。

 衛兵たちは岩場の周りを囲んでいましたが、次々と繰り広げられる演奏にすっかり夢中で、見回りなどそっちのけになっていました。人魚姫は簡単にお城を離れることができました。

 しばらく泳いでから、名残惜しくなって後ろを振り返りました。岩場にたくさんの海底の住人が集まって楽しんでいるのが見えます。音楽は微かにですが、ここまで届いています。それでもずいぶん小さく見えるお城が、人魚姫をたまらなく寂しい気持ちにさせました。

(いいえ、ここで引き返してはいけないわ。あの人のもとへ行くのに、一人ぼっちの寂しさに負けてはいけない)

 人魚姫は涙をこらえて砂地を目指して泳ぎだしました。だんだんと、音楽は小さくなってゆき、とうとう聞こえなくなりました。そして、夜の静けさだけが周りに漂っていました。

 周りはだんだんと恐ろしい砂地へ変わっていきました。溺れて死んだ人間や人魚の、魚の骨などがそこここに落ちていて、君の悪いポプラがねばねばした茎をのばしていいます。人魚姫はひれがすくみそうでしたが、勇気を振り絞って泳ぎ続けました。やがて、大きなシャチがぐるりぐるりと一つ所を巡って泳いでいるのが見えました。その下が窪地になっています。あれこそ魔女の住処に違いないと、人魚姫はゆっくりと近づきました。

「ごきげんよう、人魚姫様」

 突然、目の前に影が現れたので、人魚姫は顔を覆って悲鳴を上げました。

「そんなに怖がらないでちょうだいな。わたくしずっとあなたを待っていたんですのよ」

 手を顔から外してみると、どうにもそこにいたのは若い人間の女のようでした。人間が水の中にいられるはずはないのに、彼女は平気で水の中にいて、ひれもないのに人魚と同じように水に浮き、すいすい動きます。そういう不思議なことができるのは、彼女こそが魔女だからでしょう。

「砂地の魔女様、やっと会えたわ。どうか私の望みをかなえてください」

「もちろんよ。言ったでしょう、わたくしあなたをずっと待っていたって」

 エルフリーデは人魚姫の手を取って薬を用意している窪地へ誘いました。ずっと腰が引けていた人魚姫ですが、窪地につくと、まわりにある魔法の道具や薬の入った瓶をキョロキョロと興味深げに見まわしました。特にあの水の中で火が燃えているかまどなど、とても興味を惹かれました。

「あなたの望みは、地上の世界へ行って王子様と結ばれることでしょう」

「まぁ、どうしてご存じなの」

「それはわたくしは魔女ですもの、大抵のことは全て見通せるのですわ」

 驚く人魚姫に、エルフリーデは一つの瓶に入った薬を見せました。冷たい青白い色をしていて、とても美味しそうには見えません。

「これはあなたのひれをそっくり失くしてしまう薬ですわ」

「ひれを? どうしてなくすの」

「それは足を生やすために決まっています。ほら、人間の足というのは、ちょうど人魚のひれのところにあるんですわ。足を生やすにはひれが邪魔なんですのよ。だから先にすっかり失くしてしまう必要がありますわ」

「それは、とても痛いのではないの?」

「そうね。でもそうしなければ足が生えないのよ」

 エルフリーデは、痛いと聞いて身を縮こまらせる人魚姫の腕をつかんで、かまどの上で煮えている小鍋の前へ連れてきました。

「ひれを失くしてしまったら、この薬で足を生やすんですわ。でもこの薬はまだ完成しておりませんの。材料が足りなくて。それで、あなたにその材料をいただきたいと思っておりましたのよ」

「それは何なの?」

「あなたの舌ですわ。足を生やすためには、その人間の体の一部がどうしても必要ですの。髪の毛とか爪先とか、そんな物じゃダメなんですわ。でも、よく見えるところを切り取ったりしたら、折角のあなたの綺麗な見た目が損なわれてしまって、王子様に嫌われてしまうもしれないでしょう。舌だったら、ろくに見えやしない部分ですから、おあつらえ向きですのよ」

「でも、それもとても痛いのではないの。それに舌がなくなったら、王子様とお話しできなくなってしまう」

 人魚姫は震え上がりました。エルフリーデは怖気づいた人魚姫を叱りつけました。

「痛みなんてその程度のことを恐れていて地上へ行けるとお思い? なにも差し出さずに望みが叶うなんて、そんなうまい話はございませんのよ。わたくしがあなたの無茶な望みをかなえてやれるのだって、遊びも休憩も全て捨てて、人生の全てを魔法の修練に捧げてきたからですのよ。あなたも王子様に会いたいと思うなら、痛みくらい耐えて見せなさいな。

 喋れなかったとしても、強い気持ちがあれば王子様に届くはずですわ。むしろ届くように努力するべきです。人魚が上の世界へ行くなんて、無茶なことをするのだから、それくらいの困難は当たり前でしてよ。それもできないようなら、王子と結ばれるなんて夢のまた夢。それなら一生海底で上を見上げて暮らしていなさい」

 人魚姫は王子への気持ちと薬を飲むことへの恐怖の間で揺れ動きましたが、遂には王子への気持ちが勝ちました。愛しい王子に会うために、エルフリーデに舌を差し出したので。

 エルフリーデは魔法で舌を切り取って鍋の中にいれました。薬が完成するまで、人魚姫は痛みに耐えかねてじたばたしていました。

 薬が出来上がるとそれをもう一つの瓶に詰め、二つの瓶を持たせました。そして使い魔に命じて人魚姫を水面へと連れて行かせました。

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

ヘルガ

腰は曲がり、顔は皺だらけ、魔力が低く箒で飛ぶのも一苦労なおばあさんの魔女見習い。正式な魔女となるために参加した魔女試験で、シンデレラを幸せにするこという課題を課される。使い魔はネズミのラルフ。

マヌエラ

魔女試験に参加する魔女見習い。けばけばした化粧をした派手な女。ヘンデルとグレーテルを幸せにするのが課題。師匠同士が知り合いだったため、ヘルガのことは試験が始まる前から知っている。使い魔は黒猫のヴェラ。

エルフリーデ

魔女試験に参加する魔女見習い。長身で美しい若い娘。名門一族の出身である自負が強く、傲慢で他の見習いたちを見下している。人魚姫を幸せにするのが課題。使い魔は黒猫のカトリン。

イルゼ

魔女試験に参加する魔女見習い。聡明で勉強家であり、既に魔女の世界でその名が知れているほどの力があるが、同時にある国の王妃でもある。白雪姫の継母であり、関係性に悩んでいる。課題は自国民を幸せにすること。使い魔は黒猫のユッテ。

ヨハンナ

魔女試験に参加する若い魔女見習い。没落した名門一族の出身で、この試験で優秀な成績を修め館の魔女になって一族の復興させたいと願っている。ペドラとは因縁がある。課題はマルティンという王子を幸せにすること。使い魔は猫のエメリヒ。

ペドラ

今回の試験監督の補佐を務める館の魔女。じつは100年前の試験である国の王女に賭けた祝福の魔法の成就が、この試験中に決まるという事情を抱えている。胡麻塩頭で色黒の、陰気な魔女。使い魔は黒猫のディルク。

ケルスティン

今回の試験監督を務める館の魔女。軍服を纏い男装している妙齢の女性。魔女見習いたちの奮闘を面白がって眺めているが、気まぐれに手だししたり助言したりする。黒猫以外にも、ヘビやカラスなど複数の使い魔を操る。

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み