第二章 それぞれの対象 第2話

文字数 3,019文字

「あの子は前からちょっと変わったところがあったじゃない。今になって心配する必要はないのに、おばあ様は末っ子を可愛がりすぎよ」

「でも、あの嵐の日以来、ずっと庭で溜息をついているわ。上で何かあったんじゃないかしら」

「そうよね。特にあの子は上の世界を気に入っていたから、何か思い詰めて良くないことを考えやしないかしら」

「まさか、気に入っているといっても、最近上の世界へ行けるようになって物珍しいだけでしょう。それで何か大それたことをするなんて考えられないわ」

「そうよ。もう少ししたら飽きて、上へ浮かび上がろうなんて思わなくなるわ」

 エルフリーデは魚の目を通して娘たちの顔を注意深く見ました。どれもあの額縁の中へ浮かんだ顔ではありませんでした。

 エルフリーデはそのまま魚を移動させて、城の外へ出しました。城の周りは地上の人間の城の花壇と同じように、小さな岩や貝殻で仕切られた中に珊瑚や海藻が植えられていました。

 その中でも大きく囲われた庭が並んでいるところがあります。その一番端の一つに、人魚の娘が座り込んでいました。

 そこの庭は他の庭と様子が違っていました。珊瑚や海藻、貝が植えられているのは同じですが、その中に交じって、地上の人間が使う、フォークだとかナイフだとか鍋だとか、本だとか望遠鏡だとかペンだとか、そういった道具が飾られているのです。

 このちょっとおかしな庭に座り込んでいる娘は、絹のような美しい銀の髪をふわりと水に揺らして、この海のような青緑色の大きな瞳を憂え気に伏せています。青く玉虫色に光る鱗に、薄絹のような淡い桃色のひれをしていて、そこにはやはり八つの牡蠣が付いていました。真珠でできた百合の花の冠をかぶり、キラキラ輝くベールが頭を覆っています。先ほどの娘たちよりも、頭一つ抜けた美しさでした。

 しかしずっと憂鬱そうな顔をして座り込み、ときおり溜息をついては上を見上げ、庭にある人間の使う小さな道具を手に取って弄んでは、また溜息をつく、ということを繰り返していました。

 すると、城の方から人魚が泳いできました。鱗も尾ひれも髪も白く、ひときわ豪華な真珠の花の冠をつけ、尾ひれに牡蠣を十二個もつけていました。よく顔を見ると、それは人間の老婆そのもので、年を取った人魚だとわかりました。

「姫や、お前が大好きな海藻のお菓子を作らせたから、お部屋へ戻って食べなさい」

 白い人魚は娘の手を取りました、しかし娘はゆるゆると首を振りました。

「おばあ様、有り難いけれど、わたしはお菓子を食べるより、もう少しこの庭にいたいの」

 祖母は根気強く城へ戻ろうと勧めましたが、姫は頑として動こうとしません。

「最近のお前はいったいどうしてしまったというの? わたしは心配でならないのよ。上で何があったのか、せめてこの祖母には打ち明けておくれ」

 祖母は強く言いました。姫はなおも黙っていましたが、懇願するように言われると、観念したのか、ぽつぽつと、己の胸の内を離し始めました。

 人魚の姫たちは15歳になったら海の上へ浮かび上がって、人間の世界を見てもいいと決められていました。この末の姫は小さいころから上の世界に興味があって、15歳になるのを首を長くして待っていました。そして誕生日が来てからというもの、しょっちゅう海の上へ浮かんでいって、地上の世界と人間たちの営みを見ていました。

 ある日、姫が海の上へ浮かび上がると、大きな船が浮かんでいました。船を間近で見るのは初めてだったので、姫は人間たちに気が付かれないように、もっと近づいてまじまじと見ていました。

 すると、甲板の上に紺色の軍服を着た青年が出てきました。海の底では見た事のない柔らかい茶色い髪が潮風になびき、優しげな茶色い目は太陽の光を受けて輝き、スッと通った鼻筋も優雅な曲線を描く頬も真珠を磨いてできたように瑞々しく艶めいていました。唇はうっすらと珊瑚の色がにじんでいるようで、そこから発せられる声は聞いたこともないくらい心地よい音色でした。

 人魚姫は彼に釘付けになってしまいました。そして日が暮れるまでずっとその船の側にいて、もう一度その姿が見えないかと期待していました。

 ところが、夜になって急に冷たい風が吹き、雨が降り始めました。風雨はだんだんと激しくなり、しまいには雷が鳴って、大嵐になりました。青年の乗った船は波にもまれて転覆してしまいました。

 青年が海の中へ来てくれたら、ずっと一緒にいられる。これはとても良いめぐりあわせだ。姫はついそんなことを考えましたが、人間は海の中では生きていけないことを思い出し、すぐに王子を探しました。荒ぶる波をかき分けて、水底へ沈みかけた王子を見つけると、抱きしめて海の上へ浮かび上がりました。

 王子は気を失っていましたが、まだ生きていました。姫は波に逆らって泳ぎ、海辺の小さな教会の前の波打ち際へ王子を横たえました。水平線の向こうには、太陽が見え隠れしています。人間に姿を見られては大変だと、姫はすぐに海へもぐりました。

「それでも、あの方がどうなったか気になって、わたし、海岸の岩陰に隠れてずっと見ていたの。そしたら教会から人が出てきて、あの人を助けてくれたわ。遠くからだったけれど、あの人が目を開けて何か話しているのを見たのよ。その後たくさんの人が助けに来て、教会の中へあの人を運び込んだの」

 姫はそこでほう、と溜息をつきました。

「あの時から、どういうわけか、何をしていてもあの人の顔が頭に浮かぶの。だってあんなに美して優しそうな人、わたし初めて会ったんですもの。

 ああ、あの人のことをもっと見たい。わたしが人魚でなければ、側に行ってずっと一緒にいられるのに。いいえ、側にいられなくてもいいわ、あの人がいる上の世界で生きて、同じ空気を吸って、同じ地面を歩けたら、それだけで心が満たされるでしょう。

 でもわたしは海の中にいる。ここでしか生きられないの。この冷たく退屈で重苦しい世界でね。それがどうしようもなく悲しくて、そして悔しいのよ」

 姫は思いのたけを全て打ち明けてしまうと、庭に飾ってある、壊れた船の手すりの一部に抱き着きました。

 祖母は顔を真っ青にして震えていました。

「なんてことでしょう! 海の中に住まう人魚が、人間の男に心を奪われるなど。決して許されることではありませんよ。

 ああ、姫や。あなたはまだ幼くて、珍しいものが好きで、それでいて昔からあれこれと考えこむ性質だったから、人間を見てとんでもない思い込みをしてしまったのね。でも、その考えは間違っていますよ。人魚が上の世界で幸せになれるわけがないのです。そんな間違った考えは捨てなさい。早く城へ戻って、お姉さまたちとおじゃべりでもして、その人間のことは忘れてしまいなさいな」

 しかし姫は祖母に何と言われても庭から動こうとはしませんでした。遂に祖母は諦めて、嘆きながら城へ戻っていきました。

「おばあ様が何と言おうと、あの方こそがわたしの全てなのだわ。あの方のお側にいられたら、どんなに幸せかしら」

 姫は目に涙をためて嘆くのでした。

 エルフリーデはここで魚にかけた魔法を解きました。

「なるほど。あの人魚姫はその青年と添い遂げることを望んでいるのね。ならばそれをかなえてやるのがわたくしの課題なのだわ」

 これからの指針も決まったことですから、エルフリーデはシャチを連れて、一度城を離れました。
 
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