第五章 心の支え 第7話

文字数 2,962文字

 人魚姫はシャチに尾ひれを咥えられて、ものすごい速さで水面まで連れてこられました。けれど舌を切られた痛みに体を跳ねさせながら、水面に浮かび上がっているのがやっとでした。シャチはそんな人魚姫を鼻先で海岸のほうへと押しやりました。少しずつ波打ち際に近づいていきます。

 その間にも人魚姫は苦痛に身をよじらせていました。そのせいで、髪に刺したフォークやペン、煙管も、尾ひれの皿も、手袋も網も、すべて海の底へ落ちていってしまいました。

 それでも何とか波打ち際を目指して泳ぎ、ついにたどり着きました。上半身を砂の上に横たえて、なおも唸っていた人魚姫ですが、両手に握った薬の事を思い出しました。夜が明けて人間たちに人魚の姿でいるところを見られたら、たちまち大騒ぎになってしまうに違いありません。夜のうちに足を生やして、すっかり人間と同じ姿にならなくては。

 まず砂浜に赤い薬を置いて、青い薬のふたを開けました。この薬を飲んだら、今以上に耐えがたい痛みに襲われるに違いありません。恐ろしくて、手がぶるぶると震えます。

(痛みなんて怖くないわ。あの人に会えるなら、わたしは耐えてみせる!)

 遂に意を決した人魚姫は、瓶に口をつけました。あまりにも苦いので、咽てしまいましたが、我慢して最後の一滴まで飲み干します。するとやはり尾ひれに鋭い痛みが走りました。鱗を一枚一枚はがし、肉をそぎ落とされるような、そんな痛みでした。人魚姫は激しく呻いて砂浜をのたうち回りました。そうしているうちに、まるで水に溶けてなくなるように、尾ひれはすっかり消えてしまいました。

 ぐったりしていた人魚姫は、なんとか手を伸ばして赤い薬をつかみ、震える手でふたを開けて、これもすべて飲み干しました。今度はお腹の下あたりが焼けるように痛みはじめ、またもんどりうって耐えるしかありませんでした。

 遂には気が遠くなって何も考えられなくなりました。しばらくして我に返り、何とか体を起こして見てみると、顔や手と同じ真っ白い綺麗な足が生えていました。

 とにかく足を手にいれることができました。人魚姫はほっとすると、また気が遠くなって、砂浜に倒れてしまいました。

 やがて夜が明けて、仕事に出てきた人間が人魚姫を見つけました。溺れた娘だと思ったのでしょう。すぐに大勢の人が集まってきて、誰かの家へ連れて行って介抱してくれました。人間たちは親切で、人間の服を着せてくれて、ベッドに寝かせてくれました。目を覚ました人魚姫はお礼を言おうとしましたが、喋れませんので無理でした。

 お城へ行きたいと伝えることもできず、人魚姫はもどかしく思いました。そして人々が寝静まった夜に、こっそりとこの家を出ることにしました。

 ところがそれは簡単にはいきませんでした。まず人魚姫は歩くということをしたことがありませんから、新しく生えたから足をどうやれば前に進めるのか、まったくわからないのです。おまけにこの足ときたら、足の裏にちょっと何かが触れるたびに、鋭い痛みがはしります。これではとても人間たちのように動けるはずがありません。

(いいえ。諦めてはいけないわ。魔女が言った通り、こんなことで挫けていたら、王子様と結ばれることなんてできないのよ)

 人魚姫は頑張ってベッドから降り、何とか立ち上がることができました。そして壁に捕まりながら、人間の真似をして足を動かし、少しずつ歩きました。

 そうやってゆっくりと家から出ることができました。外は暗かったですが、月が出ていて町を照らしていました。

 注意深く見渡すと、町の奥の方に、立派なお城がありました。あれこそ王子様の住んでいるお城です。人魚姫はお城を目指して、ゆっくりと足を動かしました。

 人魚姫の歩みに合わせるように、ゆっくりと夜が明けていきました。朝になって街に出てきた人々は、家の壁を伝いながら足を引きずるように歩く人魚姫を、一体この娘はどうしたのだろうか、と遠巻きに見ています。

 お日様が高く上った時に、ようやく人魚姫はお城の門の前に着きました。一足踏み出すごとに痛みを感じていたので、耐えきれなくなってそこに倒れてしまいました。門番も周りの人たちも驚いて、どうしたものかとおろおろしていました。すると、門の奥から人がやってきました。

「いったい何事だい?」

 柔らかく心地の良い声に、人魚姫は首を動かして見上げました。門番の後ろに現れたのは、なんとあの王子でした。

 王子は柔らかい茶色い髪を揺らして、こちらへ近づいてしゃがみ込み、人魚姫の顔を見つめてくれました。

「怪我をしたか、病気になったか、とにかく弱っているみたいだね。城の中へ運んで休ませてあげてくれ」

 門番二人はすぐに人魚姫を担ぎあげて、お城の中へ運び込みました。それからきれいな小さな部屋のベッドに寝かされ、女の小間使いたちが水を飲ませてくれたりしました。そして医者がやってきて、あれこれ診察して、薬をくれました。その間、王子はずっとそばについていてくれました。人魚姫はそれだけでとても幸せで、先ほどまでの痛みなど吹き飛んでしまいました。

「ねぇ、君はどこの誰? どうしてお城の前で倒れていたんだい」

 王子が優しく尋ねました。けれど人魚姫は話すことができません。ですが何とか身振りや手ぶりで、必死に王子に会いたかったのだと伝えました。

「話せないのでは、家もどこにあるのかわからないし、どうしてこんなにやつれているのかもわからないね。でも医者が言うには悪い病気ではなくて、ゆっくり休めば顔色も良くなるということだったよ。だからしばらくはここでゆっくり休んでいていいよ。家へ帰るのは、元気になってからにしよう」

 なんと、お城においてもらえるのです。人魚姫はとても喜びました。その間に努力して気持ちを伝えれば、きっと王子様に伝わるはずです。

 こうして人魚姫は幸せになるための第一歩を踏み出したのでした。

 エルフリーデはケルスティンのカラスの目を通してこの光景を見ていました。全ては彼女の思惑通りに進んでいます。

「流石、順調なようだな」

「当然ですわ。一番最初の所でつまづいていては、落第まっしぐらですもの」

 エルフリーデは得意になって言いました。

「その通り、この先が肝心なところだ。しかし言葉をしゃべれない人魚姫が、王子の愛を手にいれられるだろうか。努力するといっても、努力には限界があるものだからな」

 ケルスティンは顎に手を当てて、少し笑ってエルフリーデを見ました。

「物事の成否は、本人が困難に打ち勝つかどうかできまります。もちろんわたくしの手助けがあれば、必ずうまくいきますけれど、でも全てわたくしの力で何とかしてしまったら、本当に幸せになれたと言えないでしょう。

 望みを叶えるためには、誰かに頼るだけではなくて、自らも必死に動かなければいけません。人間でも人魚でも魔女でも、それは同じでは?」

「確かに。それでは君も必死に動くわけだね。最優秀者となって館入りするために」

 心の内を見透かされたようでどきりとしたエルフリーデでしたが、それを隠してただ微笑みで答えました。

「始まったばかりとは言え少し退屈だったからな。期待しているぞ」

 それだけ言うと、ケルスティンは泡に包まれて、あっという間に消えてしまいました。
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登場人物紹介

ヘルガ

腰は曲がり、顔は皺だらけ、魔力が低く箒で飛ぶのも一苦労なおばあさんの魔女見習い。正式な魔女となるために参加した魔女試験で、シンデレラを幸せにするこという課題を課される。使い魔はネズミのラルフ。

マヌエラ

魔女試験に参加する魔女見習い。けばけばした化粧をした派手な女。ヘンデルとグレーテルを幸せにするのが課題。師匠同士が知り合いだったため、ヘルガのことは試験が始まる前から知っている。使い魔は黒猫のヴェラ。

エルフリーデ

魔女試験に参加する魔女見習い。長身で美しい若い娘。名門一族の出身である自負が強く、傲慢で他の見習いたちを見下している。人魚姫を幸せにするのが課題。使い魔は黒猫のカトリン。

イルゼ

魔女試験に参加する魔女見習い。聡明で勉強家であり、既に魔女の世界でその名が知れているほどの力があるが、同時にある国の王妃でもある。白雪姫の継母であり、関係性に悩んでいる。課題は自国民を幸せにすること。使い魔は黒猫のユッテ。

ヨハンナ

魔女試験に参加する若い魔女見習い。没落した名門一族の出身で、この試験で優秀な成績を修め館の魔女になって一族の復興させたいと願っている。ペドラとは因縁がある。課題はマルティンという王子を幸せにすること。使い魔は猫のエメリヒ。

ペドラ

今回の試験監督の補佐を務める館の魔女。じつは100年前の試験である国の王女に賭けた祝福の魔法の成就が、この試験中に決まるという事情を抱えている。胡麻塩頭で色黒の、陰気な魔女。使い魔は黒猫のディルク。

ケルスティン

今回の試験監督を務める館の魔女。軍服を纏い男装している妙齢の女性。魔女見習いたちの奮闘を面白がって眺めているが、気まぐれに手だししたり助言したりする。黒猫以外にも、ヘビやカラスなど複数の使い魔を操る。

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