第二章 それぞれの対象 第1話

文字数 2,841文字

 さて、金の輪をくぐったエルフリーデは、太陽がさんさんと光る青空の真ん中へ出ました。眼下には真っ青な大海原が広がり、波はキラキラと光っています。

 魔法も使わず、箒にも乗らずにいたエルフリーデは、そのまま頭から真っ逆さまに海へと落ちていきました。傍から見れば、思わず目をつむってしまいたくなるような恐ろしさでしたが、当人はいたって冷静で、くぐった金の輪を小さくしてブレスレットに戻すと、帽子の中から毛足の長い黒猫を出して、これに魔法をかけました。黒猫は魔法の力を受けて光ながらエルフリーデより先に海原へ吸い込まれていきました。

 やがてエルフリーデも頭から、ざぶん、と海に入ってしまいました。海の中へ入るとエルフリーデはくるりと体を回して、頭を明るい光の差し込む方へ向けました。まるで見えない床に立っているかのようでした。

 あれだけ盛大に水の中へ飛び込んだというのに、エルフリーデの髪も顔も衣服も、濡れて色が変わったり、重たくなったりしていません。よくよく見れば、青白い薄い膜がその体やドレスをそっくり包んでいました。もちろん息苦しそうにもしていません。それどころか、まるで地上にいる時と同じように、静かに息をしています。

 少し足や手を動かすと、すいっと体が動きます。歩いているのとは少し違いますが、それと同じように何不自由なく好きな方向へ自由に動けるのです。ちょうど周りの小魚たちが水の中を泳ぐのと同じようでした。

 エルフリーデが物珍しかったのか、数匹の魚は彼女の周りに寄ってきました。まるで遊んででくれとでもいうように、周りをくるくると泳ぎます。けれどエルフリーデは魚など見ていないかのように、すいすいと手足を動かしてどんどん水中を進み、もう少し深いところへ向かって沈んでいきました。

 不意に、魚たちが、ピクリと動きを止めて、大慌てでエルフリーデのりそばから逃げ出しました。他の魚たちも一斉に同じ方角へと泳ぎ去っていきます。魚たちが泳いでいったのと逆方向を見ると、黒い体に白い模様の大きなシャチがこちらへ向かってぐんぐん泳いで来るのでした。

 エルフリーデは全く怖がることなくそのシャチを待ちかまえました。シャチはエルフリーデの手前で泳ぐのをやめて、口先をエルフリーデに差し出すような恰好をしました。エルフリーデはその口の下を優しくなでました。

「海の中では猫の姿では不便でしょうから、暫くシャチでいてもらいますわね。でもこの獰猛な姿の方が、お前にはお似合いかもしれなくてよ」

 このシャチは、エルフリーデの使い魔の猫なのでした。海に落ちる前に魔法をかけて、シャチの姿に変えたのです。

「さぁ、どこへ向かうかはもうわかっているでしょう。連れて行ってちょうだい」

 エルフリーデが背びれにつかまると、使い魔のシャチは勢いよく尾ひれをうねらせて、ぐんぐんより深いところへと進んでいきました。

 明るい日の光はどんどん遠のいて、海はより暗い色へと変化していきます。ですが海の中でも問題なく過ごせるように、色々と魔法の薬を使っているエルフリーデには、真っ暗で何も見えないということはありませんでした。今の彼女はまったく海の中で暮らす魚たちと同じでしたので、岩場や海藻や魚たちが、くっきりと見えていました。もっともシャチの泳ぎが早いので、全てがびゅんびゅんと通り過ぎていき、じっくりと観察する暇などありませんでした。もとよりここへ来た目的は海の世界の観察ではなかったので、エルフリーデは珍しい魚や海藻、地上ではとても見られない隆起した地形や海底の山には見向きもしませんでした。

 やがてシャチは大きな地面の裂け目へたどり着きました。終りが見えない程深くて、地の底まで続いているようでした。シャチは裂け目へ飛び込み、まるで川を泳ぐように、裂け目に沿って進みました。

 しばらく進むと、裂け目の断崖に大きな割れ目がありました。近づくと、ほんの少しだけ周りの水が吸い込まれているのがわかります。同じくらい割れ目の中からも水が流れ出てくるのが感じられました。

 シャチはだいぶゆっくりと泳ぎながら、慎重に割れ目の中へ入って行きました。エルフリーデは背びれから手を離して、隣にぴたりと寄り添いながら進みました。

 割れ目のなかは洞窟になっていました。上、下、右、左と曲がりくねっていて、エルフリーデの目にも薄暗く見えました。ギザギザに尖った岩肌は、うっかりぶつかったら怪我をしてしまいそうでした。特にシャチは体が大きいので、ゆっくりと慎重に進むしかありません。

 出口のない洞窟はありません。二人がゆっくりと進んでゆくと、やがて薄明かりがさしてきました。出口が近いようです。

 洞窟出ると、ぽっかりと開けた岩場へ出ました。先ほどまでのごつごつして寂しいものとちがい、ちらほら海藻や珊瑚が生えて、ヒトデや貝が落ちています。水もなんだか澄み切っているようで、あたりの深い青い色も、濃い色から薄い色へ、薄い色から濃い色へと、波打つように移り変わり、幻想的で美しいです。

 進んでゆくにつれて、珊瑚や海藻は増え、小魚の姿もみとめられるようになりました。そして遠くの方に、大きくきらめく何かが見えました。

 それは海中の城でした。クジラやシャチやイルカの骨を土台にして、屋根には大きな貝殻が敷き詰められ、窓は珊瑚、壁は海藻やイソギンチャク、フジツボで覆われています。そのどれもが美しい色をしていて、光を反射してキラキラと輝いています。

「あれが人魚の城ね。本で読んだことがあるけれど、実物を見るのは初めてだわ」

 流石のエルフリーデもその幻想的な美しさに溜息を洩らします。しかし、いつまでも城を鑑賞しているわけにはいきません。エルフリーデは使い魔と一緒に大きな岩の影に身を寄せました。そして杖を取り出し、呑気に泳いでいる黄色い小魚に向かって一振りしました。すると小魚は一度ピクリと飛び跳ね、人魚の城へと一直線に泳いでいきました。

 今、この黄色い魚とエルフリーデは繋がっています。魚の意思はまったく消えてしまって、エルフリーデが命じる方向へ泳ぎますし、魚の目に映るもの、耳に聞こえる音、全てエルフリーデの目と耳にも届きます。こうして動物を自分の分身のように操る魔法は、魔女がよく使うものです。

 小魚はそのまま城へ近づき、珊瑚の窓をくぐって中へ入りました。人魚の城なので、人間の城とは違って、廊下や階段があるわけではありませんでしたが、海藻や大きな貝、または難破船の帆や平たい岩などを使って、部屋らしき空間が仕切られていました。

 話し声がする方へ言ってみると、若い娘の人魚たちが集まって、岩や貝殻に腰掛けたり、海藻に絡まったりしながら、他愛もないおしゃべりをしていました。誰もが頭に真珠で作った花の冠をつけ、それぞれ違う色の尾ひれに牡蠣を八つつけています。みな美しい顔をしていました。

 エルフリーデは魚をそっと近づけさせ、会話に聞き耳を立てました。
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