第四章 何が幸せか 第3話
文字数 3,007文字
貝殻には人魚の城が映し出されました。それはもちろん、エルフリーデの目に映った景色です。
エルフリーデはシャチから離れて、一人でこっそりと城に近づき、中を覗き見ました。城の中では人魚の姫たちが、全身真っ白な祖母を囲んでおしゃべりに興じていました。
「こんどの音楽会では、三匹のサーモンを歌うわ」
「おばあ様、わたしは海藻の森の朝を歌うわ」
「ええ、ええ、どれも大変結構だこと。たまの催しだなんだから、賑やかに、楽しくしなくてはね。わたしはね、あなたたち孫娘が幸せそうにしているのが、一番なのよ」
祖母は満足そうに孫娘たちを見回しました。ですが、そこにはあの末の孫娘だけいませんでした。また一人であの庭で、地上のことを考えているに違いありません。
「わたしは荒れ狂う渦巻にするわ」
孫娘の一人が言いました。祖母は顔をしかめました。
「そんな悲しくて恐ろしい曲はやめて、楽しい曲にしてちょうだいな。心配事が思い出されて、気持ちが暗くなってしまうわ」
「ほら、おばあ様は最近あの子のことで気をもんでいらっしゃるから」
孫娘たちは、ああ、そのことね、と目配せしあって頷きました。
「あの子は何を歌うつもりかしらね」
「陸に上がったカメの歌じゃない?」
そう言って小さく笑い声をたてました。ただ一人、祖母だけが沈んだ表情をしています。
「あの子もいつまでも飽きないわね。上の世界なんて、べつに大したことないのに」
「そうそう。大体ここから浮かび上がって見えるものなんていつも同じなのに、なにをそんなにしょっちゅう行くことがあるのかしら」
彼女たちには末の妹がなぜ地上に焦がれているのか全く理解できないのです。
「いい加減に目を覚ましたらいいのに。おばあ様をこんなに心配させて」
「わたしのことはいいのよ。あの子はしょっちゅう上へ行ってしまうし、戻ってきても上を見て溜息ばかり。このままあんな憂鬱な顔で長い人生を過ごすかと思うと、不憫でならないわ。
上へ行ってはいけないというつもりはないわ。あなたたちみたいにちょっと顔を出して、見物するくらいなら、なにも悪いことはないの。でもあんなにのめりこんではいけないわ。上の世界なんて、人魚にとっていいものでもなんでもないんですからね。わたしたちはあんなところではとても生きていけないのだから。そのことは小さいころからお前たちに話して聞かせてきたというのに。
一番心配なのは、あの子がわたしの教えたことをすっかり無視して、地上へ行ってしまうことよ。そうなったらここで溜息ばかりついて時が過ぎるのを待つより、もっと不幸せなことなんだから」
祖母の嘆きを聞いて、孫娘たちはある者はあり得ないと笑いとばし、ある者は祖母を慰め、ある者は共感し末の妹に怒りすら覚えました。
祖母はその後もずっと末の姫の心配をつづけました。他の姫の中には、せっかくの楽しい音楽会の話題がつまらなくなってしまいましたし、しかも末の姫ばかりがかわいがられているようにも感しられて、もうこのことを話すのが嫌になってしまいました。
「心配しすぎよおばあ様。あの子がいくら望んだって、尾ひれのついたこの体では、陸に上がることなんてできっこないわ。そんなことより、音楽会の演奏にどの魚を呼ぶか話し合いましょうよ」
姫たちはまた楽しそうにあれやこれやと案を出し合いました。祖母もそれにつられて、今は末の姫のことを忘れたようでした。
エルフリーデは城を離れて、例の庭へ行きました。今日も今日とて末の姫は地上のもので飾った自分の庭にいました。
エルフリーデは瓶の中の薬を飲んで、また祖母の姿に化けました。そして白い尾ひれをわざと顔の前に近づけました。ヘルガに自分の変身の出来栄えを見せつけてやりたかったのです。
そして姫に近づくと、彼女は顔を上げてこちらを見ましたが、少しいやそうな顔をしました。
「おばあ様、わたしは音楽会には出ないわ。こんな気持ちで呑気に歌なんて歌っていられないもの」
「まぁまぁ、どうしてそんな子どもっぽいことを言うのかしら」
「どうしてですって。おばあ様が上の世界のことなんか忘れなさいなんて、ひどいことを言うからじゃない。あの時はわたしの気持ちをわかってくださったのに、わたしの気持ちを知っていて忘れろなんて、ひどすぎるわ」
どうやら姫は祖母の意見ががころころ変わっているので怪しんでいるようです。ある時は本物ですが、ある時はエルフリーデが化けているので、こういうことになってしまうのです。
「姫や、わたしはあなたの心をわかっているつもりですよ。でもね、前にも話したように、人魚が地上で生きてゆくのは本当に難しいことなの。そうするためには覚悟も代償も必要なのだから。
わたしにとってお前はかわいい孫だから、わざわざ困難の中へ飛び込んでほしいわけがないでしょう。でも、望みを捨てろなんて残酷なことを求められないし、わたしだって、あなたと同じでじゅうぶんに迷って、踏ん切りがつかないでいるのだからね」
「迷っている? わたしは迷ってなんかいないわ。どんなことをしてでも、あの人の所へ行くと決めたの。わたしのあの人への想いは何よりも強いのよ」
「なら、どうしていつまでも庭でぐずぐずしているのかい。人間と一緒になる方法も、願い叶えてくれる魔女のことも、全て話して聞かせたではないの」
姫は目をそらして、砂地に突き刺さっていたパイプをいじりながら答えました。
「だって、魔女の所へ行こうとしても、連れ戻されてしまうんだもの。お姉様たちが、わたしがおかしくなったって言い立てるから、お父様が心配してお城の周りに衛兵を泳がせているの。彼らが目を光らせているから、外へ出ようとしたら、すぐに見つかって連れ戻されてしまうわ。こっそり出て行くことも考えたけれど、もしうっかりして見つかったら、今度は部屋に閉じ込められてしまうかもしれない。そうなったらもうあの人の所へいけなくなるわ」
そういうわけで機会を待っていたというのです。決して怖気づいたわけではないのだそうです。
それでもまだ若い娘なのだから、怖がる気落ちがほんの少しもないとはいえません。エルフリーデはもっと思い切らせるため、こう唆しました。
「お父様があなたを監視するのもわかるわ。一日中庭にいて、何を聞いてもうわの空、時々話したと思ったら、上の世界のことばかり。それで音楽会にも出ないというのだから。
出てゆく機会がないというなら、作ればいいのよ。まずは機嫌を直して音楽会へ出るとお父様やお姉様たちに申し上げなさい。そして地上のことなどすっかり諦めたふりをするの、うまく騙すことができたら、お父様も安心して、衛兵たちを休ませるはずだわ。
特に音楽会の夜は、お城に大勢の人魚や魚が集まって、歌って踊って浮かれ騒ぐから、こっそり出て行くにはちょうどいいわよ。あなたも当たり障りのない歌を一曲歌って、みんなが油断するのを待てばいいわ」
「それは名案だわ! あの人を慕う気持ちが消えたなんて、そんな嘘をつくのは胸が張り裂けるようだけど、でも上の世界へいくためには、そういう痛みも耐えなければいけないわ。わたし、やってみるわ」
「あなたが覚悟したなら、わたしもあなたが嘘をついていると悟らせないように、合わせてお芝居してあげますからね」
エルフリーデはあやすように姫の頭をなでて、早速城の中へ戻るように言いました。
エルフリーデはシャチから離れて、一人でこっそりと城に近づき、中を覗き見ました。城の中では人魚の姫たちが、全身真っ白な祖母を囲んでおしゃべりに興じていました。
「こんどの音楽会では、三匹のサーモンを歌うわ」
「おばあ様、わたしは海藻の森の朝を歌うわ」
「ええ、ええ、どれも大変結構だこと。たまの催しだなんだから、賑やかに、楽しくしなくてはね。わたしはね、あなたたち孫娘が幸せそうにしているのが、一番なのよ」
祖母は満足そうに孫娘たちを見回しました。ですが、そこにはあの末の孫娘だけいませんでした。また一人であの庭で、地上のことを考えているに違いありません。
「わたしは荒れ狂う渦巻にするわ」
孫娘の一人が言いました。祖母は顔をしかめました。
「そんな悲しくて恐ろしい曲はやめて、楽しい曲にしてちょうだいな。心配事が思い出されて、気持ちが暗くなってしまうわ」
「ほら、おばあ様は最近あの子のことで気をもんでいらっしゃるから」
孫娘たちは、ああ、そのことね、と目配せしあって頷きました。
「あの子は何を歌うつもりかしらね」
「陸に上がったカメの歌じゃない?」
そう言って小さく笑い声をたてました。ただ一人、祖母だけが沈んだ表情をしています。
「あの子もいつまでも飽きないわね。上の世界なんて、べつに大したことないのに」
「そうそう。大体ここから浮かび上がって見えるものなんていつも同じなのに、なにをそんなにしょっちゅう行くことがあるのかしら」
彼女たちには末の妹がなぜ地上に焦がれているのか全く理解できないのです。
「いい加減に目を覚ましたらいいのに。おばあ様をこんなに心配させて」
「わたしのことはいいのよ。あの子はしょっちゅう上へ行ってしまうし、戻ってきても上を見て溜息ばかり。このままあんな憂鬱な顔で長い人生を過ごすかと思うと、不憫でならないわ。
上へ行ってはいけないというつもりはないわ。あなたたちみたいにちょっと顔を出して、見物するくらいなら、なにも悪いことはないの。でもあんなにのめりこんではいけないわ。上の世界なんて、人魚にとっていいものでもなんでもないんですからね。わたしたちはあんなところではとても生きていけないのだから。そのことは小さいころからお前たちに話して聞かせてきたというのに。
一番心配なのは、あの子がわたしの教えたことをすっかり無視して、地上へ行ってしまうことよ。そうなったらここで溜息ばかりついて時が過ぎるのを待つより、もっと不幸せなことなんだから」
祖母の嘆きを聞いて、孫娘たちはある者はあり得ないと笑いとばし、ある者は祖母を慰め、ある者は共感し末の妹に怒りすら覚えました。
祖母はその後もずっと末の姫の心配をつづけました。他の姫の中には、せっかくの楽しい音楽会の話題がつまらなくなってしまいましたし、しかも末の姫ばかりがかわいがられているようにも感しられて、もうこのことを話すのが嫌になってしまいました。
「心配しすぎよおばあ様。あの子がいくら望んだって、尾ひれのついたこの体では、陸に上がることなんてできっこないわ。そんなことより、音楽会の演奏にどの魚を呼ぶか話し合いましょうよ」
姫たちはまた楽しそうにあれやこれやと案を出し合いました。祖母もそれにつられて、今は末の姫のことを忘れたようでした。
エルフリーデは城を離れて、例の庭へ行きました。今日も今日とて末の姫は地上のもので飾った自分の庭にいました。
エルフリーデは瓶の中の薬を飲んで、また祖母の姿に化けました。そして白い尾ひれをわざと顔の前に近づけました。ヘルガに自分の変身の出来栄えを見せつけてやりたかったのです。
そして姫に近づくと、彼女は顔を上げてこちらを見ましたが、少しいやそうな顔をしました。
「おばあ様、わたしは音楽会には出ないわ。こんな気持ちで呑気に歌なんて歌っていられないもの」
「まぁまぁ、どうしてそんな子どもっぽいことを言うのかしら」
「どうしてですって。おばあ様が上の世界のことなんか忘れなさいなんて、ひどいことを言うからじゃない。あの時はわたしの気持ちをわかってくださったのに、わたしの気持ちを知っていて忘れろなんて、ひどすぎるわ」
どうやら姫は祖母の意見ががころころ変わっているので怪しんでいるようです。ある時は本物ですが、ある時はエルフリーデが化けているので、こういうことになってしまうのです。
「姫や、わたしはあなたの心をわかっているつもりですよ。でもね、前にも話したように、人魚が地上で生きてゆくのは本当に難しいことなの。そうするためには覚悟も代償も必要なのだから。
わたしにとってお前はかわいい孫だから、わざわざ困難の中へ飛び込んでほしいわけがないでしょう。でも、望みを捨てろなんて残酷なことを求められないし、わたしだって、あなたと同じでじゅうぶんに迷って、踏ん切りがつかないでいるのだからね」
「迷っている? わたしは迷ってなんかいないわ。どんなことをしてでも、あの人の所へ行くと決めたの。わたしのあの人への想いは何よりも強いのよ」
「なら、どうしていつまでも庭でぐずぐずしているのかい。人間と一緒になる方法も、願い叶えてくれる魔女のことも、全て話して聞かせたではないの」
姫は目をそらして、砂地に突き刺さっていたパイプをいじりながら答えました。
「だって、魔女の所へ行こうとしても、連れ戻されてしまうんだもの。お姉様たちが、わたしがおかしくなったって言い立てるから、お父様が心配してお城の周りに衛兵を泳がせているの。彼らが目を光らせているから、外へ出ようとしたら、すぐに見つかって連れ戻されてしまうわ。こっそり出て行くことも考えたけれど、もしうっかりして見つかったら、今度は部屋に閉じ込められてしまうかもしれない。そうなったらもうあの人の所へいけなくなるわ」
そういうわけで機会を待っていたというのです。決して怖気づいたわけではないのだそうです。
それでもまだ若い娘なのだから、怖がる気落ちがほんの少しもないとはいえません。エルフリーデはもっと思い切らせるため、こう唆しました。
「お父様があなたを監視するのもわかるわ。一日中庭にいて、何を聞いてもうわの空、時々話したと思ったら、上の世界のことばかり。それで音楽会にも出ないというのだから。
出てゆく機会がないというなら、作ればいいのよ。まずは機嫌を直して音楽会へ出るとお父様やお姉様たちに申し上げなさい。そして地上のことなどすっかり諦めたふりをするの、うまく騙すことができたら、お父様も安心して、衛兵たちを休ませるはずだわ。
特に音楽会の夜は、お城に大勢の人魚や魚が集まって、歌って踊って浮かれ騒ぐから、こっそり出て行くにはちょうどいいわよ。あなたも当たり障りのない歌を一曲歌って、みんなが油断するのを待てばいいわ」
「それは名案だわ! あの人を慕う気持ちが消えたなんて、そんな嘘をつくのは胸が張り裂けるようだけど、でも上の世界へいくためには、そういう痛みも耐えなければいけないわ。わたし、やってみるわ」
「あなたが覚悟したなら、わたしもあなたが嘘をついていると悟らせないように、合わせてお芝居してあげますからね」
エルフリーデはあやすように姫の頭をなでて、早速城の中へ戻るように言いました。