第七章 すれ違い 第5話

文字数 2,914文字

 ひょっとしたら、王子はあの嵐の夜に、人魚姫が王子を助けたことを思い出したのかもしれません。そうであれば、王子は人魚姫に感謝し、もっと好きになってくれるに違いありません。そして、人魚姫があの時出会った王子を慕ってここへ来たのだとわかってくれるはずです。人魚姫は期待に目を輝かせて続きを促しました。

「昨日の夜、夢の中で僕はまた荒波のまれて海を漂っていたんだ。そして気を失って、浜辺に打ちあげられた。そのまま倒れていた僕を見つけて助けてくれた人がいたんだ。そう、あの浜辺の教会の見習いの娘さ。

 彼女は僕が元気になるように、看病してくれていたんだ。すぐに城から迎えが来て、その時は僕もまだ元気いっぱいとはいかなかったから、きちんとお礼もできなかったけれど。ああ、あの天使のように優しい微笑みを、僕はどうして忘れてしまっていたんだろう。命の恩人のことを忘れてしまうなんて、僕はなんて愚かな男なんだろう。

 きっとこの香水のせいで、嵐の夜の夢を見たんだろう。それだけをとれば、それはいい夢とは言い難いけれど、こうして素晴らしい人のことを思い出せたのだから、良い夢だったということなんだよ」

 王子は香水の瓶を持ち上げてうっとりと見つめました。

 王子が思い出したのは人魚姫ではなく別の娘でした。人魚姫はがっかりして、そして悔しくなりました。荒波の中、壊れた船の破片や放り出された荷物から王子を守り、岸まで連れて行ったのは人魚姫なのです。それと比べたら、安全な浜辺で、朝になってからのこのこ出てきて、倒れている王子を見つけたのなんて、まるで大したことではありません。

 それなのに王子は、最後にちょこっと手を出しただけの教会の娘を、命の恩人だなどと言うのです。王子は人魚姫に助けられたときはずっと気を失っていて、姫の顔を見てはいなかったので、いたしかたありません。それでも人魚姫はとても不満でした。

 あの時、海の中であなたを助けたのはわたしなの。何度も心で叫びながら、目顔や手の動きで伝えようとしますが、王子は悪い夢を見たから心配してくれているのだと思って、なだめるように姫の頭をなでるだけでした。

「それにしても、あの娘さんはどうしているだろう。いまもあの教会にいるだろうか。お礼を言いたいし、何よりもう一度会いたいな」

 その日から王子は、何くれとその娘のことばかりを話すようになりました。そして毎晩あの香水でその娘の夢を見ました。夢を見れば見るほど、だんだんと娘の顔形がはっきりとしてくるようで、人魚姫に語る娘の容姿が、より具体的に、細かくなっていきました。

 聞く限りでは、娘の見た目は人魚姫に劣りました。人魚なんて神秘的な存在に敵う人間などいないのですから当たり前なのですが、だというのに王子を夢中にさせていることに、人魚姫は強く嫉妬しました。そして本当の命の恩人である自分に振り向いてもらおうと、花をいつもよりたくさん摘んだり、呼ばれていなくても王子の側へ行ったり、足が痛いのを我慢してたくさん踊って見せたりしました。王子はこれまで通りとても喜んでくれましたが、教会の娘のことを話すのをやめませんでしたし、時々ぼうっとして、物思いにふけることが多くなりました。

 そしてとうとう、あの教会へ人をやって、娘を召しだすと言い出しました。

(どうしよう。もしあの娘がやってきたら、王子様はあの娘のことしか目に入らなくなってしまうのではないかしら。ひょっとしたらあの娘と結婚すると言い出すかもしれない)

 人魚姫は不安で夜も眠れませんでした。しかし悲観することはありません。人魚姫には強い味方がいます。それこそ砂地の魔女ことエルフリーデです。

 エルフリーデは人魚姫に恋敵ができたと知り、お城の彼女の部屋に姿を現しました。

「それにしても、王子が急にその娘のことで頭がいっぱいになったというのはおかしいですわね。

 王子がこうなったのは、香水を使って夢を見たから。そのの香水というの、怪しいですわ。持ってきて見せてちょうだい」

 香水は王子の部屋にあるので、今は持ってこられません。人魚姫は自分の枕に香りが残っているかもしれないと、枕をエルフリーデに差し出しました。

 香りはほんの少ししか残っていませんでしたが、エルフリーデには、これが魔女の薬だとわかりました。

「強い惚れ薬を、記憶を呼び起こす薬と夢を見させる薬と混ぜてありますわ。これを使って夢の中で記憶の片隅に残っていた教会の娘に惚れさせたと、そういうわけですわね。あなたは人間とは違う不思議な存在だから、媚薬の効果は出なかったようですわね。それとも、あまりに王子を慕う気持が強すぎたのかしら。

 とにかく、こうも毎晩惚れ薬を嗅いでしまったら、王子の気持ちを変えることは難しいですわ。でも安心して。こちらがもっと強い惚れ薬を用意すればいいだけ。わたくしが薬を作ってまいりますから、少しお待ちなさい」

 待っている間にも、家来たちが教会の娘を連れてきてしまうのではないかと人魚姫は不安でしたが、魔女の言葉を信じろと言われ、待つことにしました。

 エルフリーデは海の拠点へ戻りました。

「それにしてもあの媚薬、材料のマカーレプ草は滅多に見つからない薬草ですわ。栽培するのも難しくて、今のところ魔女の世界で栽培に成功したのは魔女の館と、西の魔女の畑と、そしてイルゼの庭園ですわ」

 見習いのイルゼがマカーレプ草の栽培に成功したことは、魔女の世界でもちょっとした話題でしたので、エルフリーデも知っていました。つまり、この香水はエルフリーデを邪魔するためにイルゼが作り、お城にもたらした物だったのです。

 イルゼはあのあと、ヨハンナと作戦を練って、人魚姫の恋が成就しないように邪魔することにしました。二人はイルゼの部屋の水晶玉を覗いて、人魚姫と王子を観察します。

「王子は人魚姫を気に入っているみたい。媚薬はいくら強くても、本人が歯牙にもかけないような相手には惚れさせることはできない。少しでも王子が興味を持って、特別な思いを抱きうる相手を探さないと、せっかくマカーレプ草を使っても無駄になってしまう」

 ヨハンナの言う通りです。そこでイルゼは例の鏡に訊ねました。

「鏡よ鏡、人魚姫意外に王子が好ましく思える女性はいる?」

「います。それは海辺の教会の娘です」

「鏡よ鏡、海辺の教会の娘はすぐに王子と会わせられる?」

「いいえ。今は遠くにいるので、会わせることはできません」

「鏡よ鏡、王子は教会の娘と面識はある?」

「はい。嵐の夜が明けた朝に会っています」

 惚れ薬は相手に会った時に服用するのが最も効果が出ます。ですが教会の娘は王子に会えないようです。ならば記憶の中の姿を引っ張り出してきて会わせてやればいいのだと、イルゼはいくつかの薬を調合して、複雑で強力な媚薬を作ることにしたのでした。

 いくつもの薬を合わせるのは、それは簡単にいかないことでしたが、ヨハンナも手伝ってくれましたし、なによりイルゼは庭園で色々な薬草を育てていましたから、材料探しの手間も省けました。こうして、素早く完成した薬を、操った交易商に持たせて王宮へもたらしたのでした。
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