第一章 魔女の館 第1話

文字数 3,020文字

 ある爽やかな秋の真夜中のことです。月だけが怪しく輝く真っ暗な夜空に、小さな影が蠢いています。よく見ればそれは上へ下へと揺れながら、ずっと夜空にとどまって、どうやら一つの方向へ進んでいるようでした。

 その影は人でした。小枝を集めた不格好な箒にまたがり、夜空と同じ色のフードのついた服で全身をすっぽりと覆っています。丸まった背中のせいで、ずいぶんとずんぐりむっくりに見えます。フードから除く丸い顔は皮膚が弛んで、ドレスのドレープのような皺だらけ、髪も眉毛も真っ白でぼさぼさ、ずいぶんとみすぼらしいおばあさんでした。

 皺に埋もれたような小さな丸い目を瞠って、真っ暗な夜空の先を見据え、ぎゅっと箒の柄を握りしめて、前へ前へと念じていますが、それでも箒はあっちへふらり、こっちへふらりと、飛んでいるというよりは、頼りなく漂っているようでした。

 すそが擦り切れた服の袖口から、薄汚い灰色のネズミが転がり出て、筋張った手をつたって、箒の柄に立って、キーキーと甲高い声を上げました。

「こんなにフラフラ、のろのろ飛行じゃ、館に着くころには夜が明けてしまうよ」

「仕方ないじゃないの。箒は苦手なのよ。でも館には必ず箒に乗って行かなければいけないというから」

 ずんぐりした人は頼りなく震えた声で答えました。その間にも、箒は上下左右にゆらゆら揺れて、ネズミは四本の足で柄の上に踏ん張っています。

「どのみち箒に乗るしかなかったくせに。移動するための魔法も使えないし、魔法道具も作れないんだから」

「あら、魔法道具は作ったわよ。行きたい場所へ飛んで行けるロープ」

「でも失敗だっただろう。輪にしたロープをくぐるだけで目的地へ行けるはずだったのに、文字通り飛んでいくロープにつかまって連れて行かれるんだから。なまじ速さはあるだけに手を離さないのは至難の業ときた。おまけに行ったことがある場所にしか飛んでいけないなんて、魔法の意味がないじゃないか」

「そんなこと言ったって、目的地をきちんと想像しないと、ロープもどこへ飛んでいったらいいかわからないでしょう。見たことも聞いたこともない場所へ行くって、そんなすごい魔法は、お師匠様みたいに魔女として経験を積まなければとてもできないものなのよ」

「その師匠に、わりと簡単な魔法道具だから作ってみろって言われたんじゃなかったっけ?」

 ネズミは目を細めて憎まれ口をたたきます。図星だったのか、箒は急にがくんと下がりました。老婆は小さな悲鳴を上げました。ネズミの体は放り出されて、あわや下に広がる暗い森に真っ逆さまかと思われましたが、なんとか前足を箒の柄の先に引っ掛けて、もとの場所まで這い上がりました。

「危ないじゃないか! 一歩間違えばお陀仏だった」

「わたしだって怖かったわよ。ああ、だから箒なんて乗るもんじゃないわ。いつ落っこちて神様に召されてしまうかわからないんだもの。まぁ、もうこんな歳だから、そうなっても仕方がないけれどね」

「年寄りの巻き添えはごめんだよ」

「だったら、ちょっと口を閉じていてちょうだい。気が散ってしょうがないわ」

 ネズミはようやく憎まれ口をたたくのをやめました。箒はなんとかある程度の高さにとどまって、ゆっくりと進んでいきました。

 しばらくすると、後ろから微かな風を感じました。老婆がそっと振り返ると、同じように空を飛んでくる魔女の姿がありました。

「あれぇ、魔女ベティーナのところのヘルガばあさんじゃないかい」

 そう声をかけて、魔女は箒をあえて遅くして、ヘルガの隣に留まりました。

「あら、マヌエラさんじゃない」

 マヌエラと呼ばれた魔女は、細い枯れ枝を集めた箒に横座りしていました。茶色いスカートはたくし上げられ、ペチコートがちらちら見えていますが、そんなことお構いなしと言わんばかりに足を組み、脛を月明かりの下に晒していました。肩にかかった黒いショールの下は、ぐっと胸元の開いた服を着ています。細かく縮れた茶色い髪を後頭部で派手にまとめて、大きな口に真っ赤な口紅を塗り、目じりの垂れた瞳を黒で囲んで、けばけばしくて品のない姿でした。

 彼女の箒の後ろには、耳の丸い少し太った黒猫がいました。気まぐれに主人の肩にのっかりますと、ネズミはチューと一声鳴いて、ヘルガのダボダボの袖の中へと逃げ込んでしまいました。

「ラルフったら。まぁ、ネズミだから猫が怖いのは当たり前かしらね」

「ヘルガ婆さん、まだ猫を使い魔にしてなかったのかい」

「大きな動物を使役するのは大変なのよ。わたしみたいなおばあさんには、ネズミくらいがちょうどいいの」

「ふーん。魔女の使い魔は猫って相場は決まってるけどね。それに猫が怖くて隠れるんじゃあ、試験の時に役に立たないんじゃないかい。なんたってこれから始まる魔女試験は、課題をこなすためなら何でもありで、参加者同士で妨害合戦は当たり前だって話だよ。他の奴らはみんな猫を連れてるはずさ。使い魔が頼りにならなかったら、心細いったらないね」

 主人の言葉に呼応して、太った猫はニャーと鳴きました。

「妨害なんて。わたしはそんな余裕はないわ。課題をこなすだけ精いっぱいよ。だからマヌエラさんは安心してね。わたしはあなたの邪魔をする気はないんだから」

「だから助け合いましょうって? 駆け引きする余裕はあるんだね、ばあさん。でも断るよ。駆け引きなら、あたいだって相手を選びたいんだ。

 まぁ、知らない仲じゃないし、にっちもさっちもいかなくなったら頼ってくれてもいいよ。それじゃあ、先に行くね。せいぜい遅れないようにね」

 マヌエラを乗せた箒はぐんと早くなって、あっという間に見えなくなってしまいました。

 ラルフは猫がいなくなったのを確かめてから、また箒の柄の上に出てきました。

「悔しくないの? あのあばずれ見習いに馬鹿にされたんだよ」

 ヘルガは少しだけ遅れて答えました。それは答えを考えていたからではなく、箒を操るのに苦戦していたからでした。

「べつに。だって本当の事じゃない。こんなおばあさんで、魔力も弱いのに、誰が協力してくれるっていうの? 誰かと一緒になっても、助けられるばっかりで役に立たないどころか、足を引っ張るだけでしょう。

 さっきのは駆け引きでもなんでもないのよ。ただわたしは無害だって伝えておきたかっただけ。ただでさえ試験に受かるかわからないのに、邪魔されたらたまったものじゃないもの。取るに足らないと放っておかれるのが一番良いわ。ただ頑張って課題をこなす。とにかく合格できればいいんだから、より優れた結果を出したいとか、他の人を出し抜きたいとか、そういう余計なことを考えちゃダメ」

 ヘルガはほんの少しだけ箒を早く飛ばしました。それだけでも操りきれなくなって、真っ逆さまに落ちてしまうかもしれないと恐ろしかったけれど、もう少し急がなければなりません。

「そんな消極的な。魔女試験はそんなに甘いものじゃないんじゃないの?」

 ラルフはまだぶつぶつ言っていましたが、速くなったために箒の揺れは大きくなり、両足で柄にしがみつかねばならなくなって、口を閉じるしかありませんでした。最後はもう一度ヘルガの袖の中に戻って、この危険な飛行が終わるのを身を丸めて待ちました。

 しばらくすると、どれも同じくらいの背丈の木の影の中に、にょっきりと背の高い影があらわれました。ヘルガは箒をゆっくりと下げて、その陰めがけて飛んでいきました。
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