第七章 すれ違い 第7話

文字数 3,008文字

 王子はそのあと何日ものあいだ、熱もないし咳も出ないのに、ずっと部屋にこもってベッドの上で過ごしていました。人魚姫は一つは王子に元気になってもらうために、もう一つは王子に好かれるために、一生懸命に看病しました。

 これは人魚姫には辛いことでした。なぜかといえば、王子がこのように元気がないのは、例の海辺の教会が焼けてしまって、嵐の翌日に助けてくれた娘が死んでしまったことを悲しんでいるからです。それほどあの娘は王子の心をつかんでいたのです。

「わたくしの惚れ薬が効いていないわけがありません。もし効果がないというなら、それはあなたの努力が足りないんですわ。

 惚れ薬とて万能ではありません。いくら強くとも、飲んだ者に強い意志があれば、効能が弱まることもあります。つまり、あなたは王子にとって、その教会の娘よりも取るに足らない存在だということですわ。

 これだけ側にいながら、王子を虜にできないなんて、あなたの怠慢です。それをわたくしのせいのように言うなんて。なんて恩知らずなのかしら。いいこと、わたしは惚れ薬を作ってあげただけでなく、あの教会を焼いて恋敵を殺してさしあげたのよ。王子がどんなにあの娘を恋しがっても、死んだ者は生き返りません。あなたにとってこれ以上ない情況をお膳立てしてさしあげたのだから、あとはご自分の力で何とかなさい」

 エルフリーデも、ひょっとしたら惚れ薬が失敗作だったかもしれないと思わないこともありません。ですが素直に失敗を認めるなんて、できっこないのでした。しかし薬がきちんとしていたとしたら、イルゼの作った薬より効果が薄かったということになり、それはそれで認めたくないことでしたので、責任を全て人魚姫に押し付けてしまったのでした。イルゼに負けるのだって耐えられないのですから、マヌエラに偽物をつかまされたことなんて、最初から頭の中にないのです。

 人魚姫はこれ以上どうやって王子に気に入られたらいいのかわかりませんでした。しかし、王子を愛する気持ちはこの世の誰よりも強いと思っていましたので、ひたすら王子に尽くすしかないと、王子の部屋へ戻っていきました。それに、エルフリーデの言う通り、教会の娘がもういないなら、安心できます。

 ある日、人魚姫が王子の寝室の花瓶に花を活けてやりますと、王子は人魚姫を呼び止めて、いつになく優しくお礼を言いました。

「君は本当に優しいね。他のみんなは教会の娘のことなど忘れて、早く起き上がりなさいというんだ。でもそんなことできない。僕はそれほど心を痛めているんだ。あの娘とは一度しか会ったことがないのに、こんなに胸が締め付けられるなんて。きっとあの娘こそ、僕が一緒に生きるべき人だったんだよ」

 それを聞いて人魚姫は涙を流し、そんなはずはない。惚れ薬のせいなのだ。誰よりも王子を愛しているのは自分だと、伝えようと試みました。

「僕のために涙を流してくれるんだね。君だけだよ、僕の心の痛みをわかってくれるのは。きっと僕たちは似ているんだろうね。君を初めて見たときに、なぜか特別な人のように感じたのだけれど、それはきっと君の心が僕と同じようだったからなんだろう。君がいてくれてよかった。理解してくれる人がいれば、きっと心の傷も癒えるはずだ」

 やっと惚れ薬が効いてきたのでしょうか。王子は人魚姫の肩をそっと抱きました。傷ついている王子に優しくしてあげたら、きっと王子は人魚姫のことを好きになるはず。これからはもっと王子に寄り添って優しくしてあげるのだと、人魚姫は涙を止めて決めました。


 エルフリーデを邪魔して留飲を下げたマヌエラがお菓子の家に戻ってくると、ヘンデルとグレーテルは、あてがわれた部屋の中で大人しく留守番していました。ヘンデルは窓辺に手をついて外を眺めていて、グレーテルはヘンデルの穴の開いた靴下を塗っていました。

 マヌエラは部屋に入るなり、グレーテルの繕い物をひったくりました。

「これはあんたの兄さんの靴下だろう。なんであんたが縫ってやるんだい?」

「だって、ここには母さんがいないから。あたしが代わりに縫うのよ」

 グレーテルは当たり前のことなのにと、目をぱちくりさせながら答えました。

「あんたは母さんじゃないだろう。だいたい、自分の靴下なら自分で繕えばいいじゃないか。

 ヘンデル、お前は小さい妹に面倒事をやらせて、自分はのんきに景色を眺めてるってわけかい? 良いご身分だね。妹を使用人扱いかい」

「僕は、そんなこと思っていやしませんよ。でも……」

 ヘンデルは慌てて言い訳をしましたが、マヌエラは最後まで言わさずに靴下をヘンデルに向かって放りました。

「自分のことは自分でやりな。グレーテルにできるんだから、あんたにだってできるだろう。妹を虐めるなんてとんでもない奴だ。今日は食事抜きだからね」

 マヌエラが杖を振りますと、ヘンデルの上唇とした唇がぴったりとくっついて、どしても離れなくなりました。言葉をしゃべれませんし、なによりまわりの沢山のお菓子を食べることができません。

 マヌエラはグレーテルの手を引っ張って部屋を出ました。グレーテルは兄へのお仕置きをやめてほしいとマヌエラに頼みました。

「靴下を縫うと言ったのはあたしなのよ。だから兄さんにちゃんとご飯を食べさせてあげて」

「靴下は誰かが縫わなきゃいけないだろうけど、それは別にあんたがやらなきゃいけないことじゃない。あんたの靴下が破れたら、兄さんが縫ってくれるのかい? 違うだろう。ヘンデルはあんたに面倒事を押し付けて楽してるだけなのさ。

 わかったら、もう靴下を縫ってあげるなんて言うんじゃないよ。そうやって優しくしてやったら、つけあがって勘違いするんだから。妹は自分の奴隷だってね」

 ヘンデルはグレーテルを奴隷だなんてこれっぽっちも思っていません。グレーテルはそれをよくわかっていますが、マヌエラがとても険しい顔をしていたので、それ以上意見を言えませんでした。

「さぁ、今日も薬草の勉強をしよう。薬草はいろいろあるから覚えるのが大変だろう。あたいも苦労したもんさ。だから頭が柔らかいうちに覚えちまうのがいいよ」

「どうしてあたしだけ色々お勉強するの? 兄さんも一緒がいい」

「だめだ。この勉強はあんたのためなんだよ。この家に来て、さしあたってあんたたちは幸せになれた。だけど、それはいつまでも続くもんじゃない。あんたが幸せになるためには、力を持つべきなんだよ。そうすればもう金輪際あんな最低な父親に物みたいに扱われることもないし、兄さんに面倒事を押し付けられることもなくなる。それでこそ幸せってもんだろう。

 ヘンデルも小さいだけで所詮は男だからね。いずれ身勝手でゲスな本性をあらわす時が来るさ。そんなやつに薬の勉強をさせたら、それを使ってあんたや他の女たちを虐めるに決まってるよ。だから教えない。代わりに今から躾けてやるんだ、自分は生まれつき楽ちんな人生が歩める人間だなんだと思い上がらないようにね。でもそれはいいことだよ。そうなりゃあ、あたいもあんたも安心できるだろう。安心できる人の周りには、同じように安心できる人が集まる。ヘンデルも身の回りで嫌な目に遭わなくて済むようになる。これで幸せになれるさ」

 難しすぎてグレーテルにはまだわかりませんでした。ですがヘンデルだけをのけ者にしているようだとははっきりわかりました。
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登場人物紹介

ヘルガ

腰は曲がり、顔は皺だらけ、魔力が低く箒で飛ぶのも一苦労なおばあさんの魔女見習い。正式な魔女となるために参加した魔女試験で、シンデレラを幸せにするこという課題を課される。使い魔はネズミのラルフ。

マヌエラ

魔女試験に参加する魔女見習い。けばけばした化粧をした派手な女。ヘンデルとグレーテルを幸せにするのが課題。師匠同士が知り合いだったため、ヘルガのことは試験が始まる前から知っている。使い魔は黒猫のヴェラ。

エルフリーデ

魔女試験に参加する魔女見習い。長身で美しい若い娘。名門一族の出身である自負が強く、傲慢で他の見習いたちを見下している。人魚姫を幸せにするのが課題。使い魔は黒猫のカトリン。

イルゼ

魔女試験に参加する魔女見習い。聡明で勉強家であり、既に魔女の世界でその名が知れているほどの力があるが、同時にある国の王妃でもある。白雪姫の継母であり、関係性に悩んでいる。課題は自国民を幸せにすること。使い魔は黒猫のユッテ。

ヨハンナ

魔女試験に参加する若い魔女見習い。没落した名門一族の出身で、この試験で優秀な成績を修め館の魔女になって一族の復興させたいと願っている。ペドラとは因縁がある。課題はマルティンという王子を幸せにすること。使い魔は猫のエメリヒ。

ペドラ

今回の試験監督の補佐を務める館の魔女。じつは100年前の試験である国の王女に賭けた祝福の魔法の成就が、この試験中に決まるという事情を抱えている。胡麻塩頭で色黒の、陰気な魔女。使い魔は黒猫のディルク。

ケルスティン

今回の試験監督を務める館の魔女。軍服を纏い男装している妙齢の女性。魔女見習いたちの奮闘を面白がって眺めているが、気まぐれに手だししたり助言したりする。黒猫以外にも、ヘビやカラスなど複数の使い魔を操る。

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