第十一章 失意の幕切れ 第10話

文字数 3,021文字

 白い刃はまっすぐに下りて行きましたが、その切っ先が王子の白い肌にめり込む寸前で止まりました。

 やはり人魚姫には愛する王子を殺すことなどできなかったのです。

(無理よ。肉体を滅ぼして魂だけになったとして、王子様はわたしを愛してくれる? 自分の心臓にナイフを突き立てて、愛する人と幸せになる未来を奪ったわたしを許して、愛してくれる? そして王女への未練を捨ててくれる? そんなことありえないわ。もし魂を手元に置いたとして、きっと王子様はわたしを軽蔑し、氷のように冷たくあしらうでしょう。それが未来永劫ずっと続くなんて、わたしきっと耐えられないわ。

 それに、魂だけになったからといって、わたしと愛の誓いを立ててくれるかわからない。それなら結局わたしは海の泡になってしまう。もうこの運命は変えられないのよ。)

人魚姫は命を懸けて王子様を愛しているのと同じように、王子も王女を愛しています。人魚姫の愛が王子様に向けれられていても、王子の愛は人魚姫にに向けられておらず、二つ思いは永久に交わることはないのです。

 それに、人魚姫にとって、王子とはその姿形、人間としての肉体を含めて完全なものでした。魂だけを手にいれたとして、それは王子のただ一部分を手にいれて、全てを手にいれられなかった自分を慰めているようなものです。想像するだけで寂しくて惨めな気持ちになります。

人魚姫はナイフを持ち上げると、静かに船室を出て行きました。そしてまた甲板の下でじっと月を眺めていました。

 いつまでもぐずぐずしている人魚姫をエルフリーデは叱りつけました。

「いくじなし。早く王子を殺さなくては、あっという間に夜が明けますわよ」

 ですが人魚姫はフルフルと首を横に振り、できないと伝えました。

 エルフリーデは火を噴くように怒りました。

「できないですって? 何を馬鹿なことを。王子がかわいそうだとでも? ふん、そんなことを気にして、どうして望みが叶うと思ったのかしら。いいこと、苦痛や苦しみを避けては、手に入るものも入らなくなるの。そういう耐えがたい困難を乗り越えてこそ、成功できるんですのよ。このことはあなたに何度か言い聞かせているでしょう。それなのにまた、同じ話をさせますの?

 もういいですわ。あなたがあくまで王子を手にかけないというなら、わたくしが王子の魂を抜き取ってさしあげますわ。それであなたと愛を誓わせれば、わたくしの課題は終わりです。落第は免れる。さあ、そのナイフをお渡しなさいな」

 エルフリーデは人魚姫からナイフを奪おうとしましたが、人魚姫は王子を殺させまいと、ナイフを渡しません。暗い甲板の上でしばし追いかけっこをしました。ちょうど月が隠れて真っ暗闇になったとき、もみ合った拍子に人魚姫は海ぬ落ちてしまいました。しかし泳ぎは得意ですから、これ幸いと素早く水中にもぐってしまいました。

「姑息な。わたくしがずっと海の底にいられることを忘れたのかしら」

 エルフリーデは箒にまたがって海の中へ潜りました。

 後ろからエルフリーデが追いかけてきます。人魚姫は懸命に泳ぎますが、人魚でいた頃と比べると、どうしたって遅いのです。このままだとあっという間に追いつかれて、ナイフを奪われてしまうでしょう。

 人魚姫は遠くへ逃げるのをやめて、ぐんぐん水面へ浮かび上がっていきました。そして水面に顔を出すと、ナイフを自身の胸につきたてました。

 ナイフが刺さった胸からは、最初は赤い血が流れていましたが、そのうちポコポコと泡が噴き出すようになりました。そして人魚姫の全身は海水に溶け出すように、少しずつ透明な泡となって、波に揺られて流されてゆき、最後は跡形もなく消えてしまいました。

「なんてこと! なんて馬鹿な真似をしたの、この人魚の小娘め!」

 エルフリーデはもういない人魚姫を大声で罵りました。

 その声を聞きつけたのか、ケルスティンが箒に乗って現れました。そしてみっともなく怒鳴り散らすエルフリーデに冷たい声で話しかけました。

「ギャーギャー騒がしいぞ。名門一族の出が聞いてあきれるな。魚たちに迷惑だ、その口を閉じろ。閉じないなら、無理やり閉じさせるぞ」

 杖を振って脅すと、流石のエルフリーデも自ら口を閉じました。

 ケルスティンは波がつま先にかかるところまで下りてきました。

「さて、君が幸せにすべき対象であった人魚姫は、求めていた人間の王子との結婚が成就せず、自らの命を絶って海の泡となって消えた。試験期間は終わっていないが、幸せにする対象が消えてしまったのだから、君にはもう挽回の機会はない。

 君の試験はここでおしまいだ。残念ながら、君は対象を幸せにすることができなかった。つまり、落第だ」

落第の二文字にエルフリーデは真っ青になって力なく首を振りました。

「嫌よ。だめよ。落第ですって……。わたくしには許されないわ。落第なんてそんなこと」

「現実を受け止めるべきだ。なに、気にすることはない。名門一族の出身でも試験に落第することはある。それこそヨハンナの大叔母のようにな。だから誰も君の落第を特別に思いはしないさ。

 それに怖れることは無い。『大いなる魔女』様から今年の落第生はミートローフにしろと仰せつかっている。先にとどめを刺してから挽肉にするわけだから、苦痛は少ないぞ。茹でられるよりよほどましだ」

 エルフリーデは突きつけられた現実を払いのけるように海から勢いよく飛び出しました。

「いいえ! 試験期間はまだあるわ。何とかして挽回して見せる。いいえしなければいけないわ。何として合格するの、そして館入りを果たすの、それができなければいけないのよ。今からでも、栄光をつかみ取って見せるわ」

 半ば狂ったように叫び、エルフリーデは遠くへ飛んで行ってしまいました。

「おや。もう落第決定だから、館へ連れて行って閉じ込めておこうと思ったのだがな。まぁいい。ならば試験終了まで、哀れで醜悪で無駄なあがきを見物させていただくとするか。それはそれで見ごたえがあるしな。

 さて、イルゼは戦争を回避して合格。ヨハンナもマルティンに生涯の伴侶を見つけてやったので合格。マヌエラも合格。エルフリーデは落第。残るはヘルガだけだな。彼女はシンデレラを幸せにすることができるかな」

 ケルスティンはまた空高くへと昇っていきました。そのすぐ後に、水平背の向こう側が明るくなりました、太陽が昇ってきたのです。

 王子と王女、そのほか船に乗っていた人たちは、朝の挨拶を済ませ、食事をとろうという時になって、ようやく人魚姫がいないことに気が付きました。

 船中を探し回っても見つかりません。海に落ちたのではないかという者もいましたが、彼女が泳ぎ上手だということはみんな知っていたので、おぼれ死んだと思う人はいませんでした。

 王子も王女も、人魚姫の事をとても心配しました。ですが船は予定通り出発し、数日で王子の国へつきました。その頃には、ふたりとも人魚姫がいなくなってしまったことを受け入れて、とても残念がりました。残念がりながら、それでも結婚式の準備は進めました。

 互いに愛する人と結ばれるのですから、これ以上の幸せはありません。その幸せのために、人魚姫のことは、時々懐かしく思い出すだけになっていきました。

 二人がそうなので、ほかの人たちは尚更です。王子と王女が結婚式を挙げるころには、人魚姫のことを覚えている人はほとんどいなくなりました。
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登場人物紹介

ヘルガ

腰は曲がり、顔は皺だらけ、魔力が低く箒で飛ぶのも一苦労なおばあさんの魔女見習い。正式な魔女となるために参加した魔女試験で、シンデレラを幸せにするこという課題を課される。使い魔はネズミのラルフ。

マヌエラ

魔女試験に参加する魔女見習い。けばけばした化粧をした派手な女。ヘンデルとグレーテルを幸せにするのが課題。師匠同士が知り合いだったため、ヘルガのことは試験が始まる前から知っている。使い魔は黒猫のヴェラ。

エルフリーデ

魔女試験に参加する魔女見習い。長身で美しい若い娘。名門一族の出身である自負が強く、傲慢で他の見習いたちを見下している。人魚姫を幸せにするのが課題。使い魔は黒猫のカトリン。

イルゼ

魔女試験に参加する魔女見習い。聡明で勉強家であり、既に魔女の世界でその名が知れているほどの力があるが、同時にある国の王妃でもある。白雪姫の継母であり、関係性に悩んでいる。課題は自国民を幸せにすること。使い魔は黒猫のユッテ。

ヨハンナ

魔女試験に参加する若い魔女見習い。没落した名門一族の出身で、この試験で優秀な成績を修め館の魔女になって一族の復興させたいと願っている。ペドラとは因縁がある。課題はマルティンという王子を幸せにすること。使い魔は猫のエメリヒ。

ペドラ

今回の試験監督の補佐を務める館の魔女。じつは100年前の試験である国の王女に賭けた祝福の魔法の成就が、この試験中に決まるという事情を抱えている。胡麻塩頭で色黒の、陰気な魔女。使い魔は黒猫のディルク。

ケルスティン

今回の試験監督を務める館の魔女。軍服を纏い男装している妙齢の女性。魔女見習いたちの奮闘を面白がって眺めているが、気まぐれに手だししたり助言したりする。黒猫以外にも、ヘビやカラスなど複数の使い魔を操る。

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