第七章 すれ違い 第4話

文字数 2,996文字

 海辺の国のお城の中庭で、美しい娘が花壇から花を数本を摘んでいました。質素ですが清潔で、若い娘にふさわしい衣服を身に着けています。めずらしい銀色の長い髪を隠すように、レースのついた三角巾を頭に巻いて、髪は三つ編みにして背中に垂らしています。

 黄色い花、赤い花、白い花、一番美しく映える組み合わせを考えて、鋏で切ります。片手に握れるくらいの束になったら、小走りでお城の中へ戻り、小ぶりで美しい絵付けのされた花瓶に花を生けます。そしてその花瓶を大切に両手で持って、ゆっくりとビロードの敷かれた階段を上がります。

 白い扉の部屋の中へ入ると、花瓶をベッドの横の棚の上に置きました。

「やぁ、お嬢さん。また花を摘んできてくれたんだね」

 柔らかい声が聞こえた方を見ますと、この城の王子が優しい微笑みをたたえ、扉をくぐってこちらへやってきます。

 人魚姫は花のような笑顔でその声に応えました。

「毎日僕のためにこんなに綺麗な花を選んでくれて、部屋がとても明るくなるよ。なによりこの花を眺めて眠りにつくときは、とても安らかな気持ちになるんだ。嫌な夢なんてちっともみないよ。不思議だね」

 それは王子への思いを込めて、丁寧に選んだ花だから。そう答えたくとも人魚姫は喋ることができませんので目顔でそう語り掛けます。

「うん? もしかして、これまでは悪い夢を見ていたんじゃないかと心配してくれているのかな。それがね、以前はよく海で溺れる夢を見たんだ。以前海で嵐に遭って、船が壊れて海に放り出されたことがあるんだ。僕は泳げるけれど、あの荒れた海の中じゃ、どうすることもできなかった。あの時は死んでしまうかもしれないと思ったものだよ。それで、時々その時の記憶が悪い夢となってしまうんだよ」

 王子はゆったりと過去のことを離して聞かせます。その嵐の夜に王子を助けたのは自分なのだと伝えられたらどんなにいいでしょう。しかし人魚姫にはできません。

「大丈夫、そんなに悲しい顔をしなくても、夢の中のことなのだから、平気さ」

 王子は人魚姫の頬を優しくなでました。

「まるで自分のことのように心配してくれるなんて、君はなんて心優しい娘だろう。どこの誰かわからないけれど、僕はなんだか君が、とても近しい人のように思えるんだよ。君は口がきけないけれど、それでも他の誰と話すよりも、自分の気持ちが思い通りに伝わる気がするんだ。きっと君は、僕を憐れんだ神様が与えてくださった人なのだろうね」

 人魚姫は大きな瞳を輝かせて、何度も頷きました。そして手のひらで胸をたたいて、同じ気持ちだということを伝えました。人魚姫にとっても、この美しい王子は神が与えてくれた生きがいだったのです。

「君も同じように思ってくれるのかい。ありがとう。僕たちは二人でいるととても幸せなんだね」

 王子は優しく人魚姫の手を引いて部屋から連れ出して、たくさん本のある部屋へ連れて行ってくれました。そして分厚い本を取り出すと、陽のさす窓辺の机の上に置き、椅子に腰かけ、隣に人魚姫を座らせて、遠い国の不思議な物語を語って聞かせてくれました。

 このように、王子は突然城に現れたこの娘をとても気に入って、いつもそばに置いてかわいがっていました。小さいですが綺麗な部屋を与えて、食事も王子同じものを食べさせました。暇ができると庭や郊外の森に連れ出して遊んだり、本を読んでやったりしていました。

 人魚姫は王子がこんなに優しくしてくれるので、毎日天にも昇る心地でした。少しでも自分の気持ちを伝えたいと、ちょっとした身の回りの世話をしたり、花を摘んできてあげたり、踊りを踊って見せたりしました。相変わらず足はずきずきと痛むのですが、王子の喜ぶ顔を見ると、そんな痛みはなんでもありませんでした。

(王子様に甘い声で呼びかけられるたびに、全身がとろけて消えてなくなってしまいそうになるわ。それにあの方はわたしを好きなんだわ。そうでなければこうして城へ住まわせて、いつも側にいおいておくはずがないもの)

 人魚姫もしばらく城で過ごして、人間の世界のことが色々とわかってきました。お城は王様の住まいですから、人魚の城と同じく、住んでいるのは王様の家族と、身の回りのお世話をする召使や城を守る兵士だけす。人魚姫はそのどちらでもないのに、お城に置いてもらえています。これは特別な事に他なりません。

(早く王子様にわたしの気持が伝わらないかしら。いいえ、もうとっくに伝わっていはず。二人でいるととても幸せだ、なんておっしゃっているんですもの。でも結婚しようとはおっしゃってくれない。やっぱりわたしが口がきけないので、無理強いしないようにしてくれているのよ、きっと。ああ、わたしの気持ちをはっきりと伝えられたら!)

 人魚姫は王子が呼んでいる本の上にびっしり並んでいる文字を見つめました。文字とは人間たちが大事なことを後の世に残したり、遠くにいる人に言いたいことを伝えるために作ったものです。インクを使ってペンで書くのです。これが使えるようになれば、自分の気持ちを書いて伝えられるのではないでしょうか。

 人魚姫がじっと本を見つめているので、王子は物語を語るのを止めて、どうしたのかと訊ねました。人魚姫は文字を指さして文字を学びたいと訴えました。

「ああ、この話が気に入ったのかい。僕も大好きだよ。僕たちはとっても気が合うね」

 王子にはきちんと伝わりませんでした。姫はなんとかして文字を学ぼうと、翌日、お王子が忙しくしている間に、この本が並んでいる部屋へやってきました。

 しかし、文字がいったいどういう仕組みをしていて、どの文字が何を現しているのか、見当もつきません。片っ端から本を持ってきて、じっと眺めてみますが、複雑怪奇な模様が連なっているようにしか見えません。

(諦めてはいけないわ。魔女も言っていたじゃない、何も差し出さずに望みが敵うわけがないと。努力して文字を書けるようにならなければ)

 そうして、無謀な挑戦を始めて数日経ったころ、王子が人魚姫に海の向こうの国から渡ってきたという香水を見せてくれました。

「とても珍しいものなんだ。ほら、とってもいい匂いがするだろう。これを枕にふりかけて眠ると、良い夢が見られるそうだよ。君の枕にもかけてあげるよ」

 王子は香水を人魚姫のベッドの枕にふりかけました。人魚姫はどんな夢が見られるだろうかと、期待して眠りにつきました。

 ところが、夢に出てきたのは海の底のお城や、姉姫たちや祖母、それに音楽会に集まった魚たちばかりでした。懐かしくはありましたが、誰もが地上へ行くことに反対し、地上への憧れを笑っていましたから、気分がいいわけがありません。てっきり王子が夢に出てきてくれると思っていたこともあり、とてもがっかりしました。

 王子はいい夢を見られたのでしょうか。人魚姫がいつものように花瓶に花を活けて持っていくと、王子はベッドに半身を起こして、なにやらぼうっとしていました。そして、人魚姫の顔を見ると、側へ来るようにと言いました。人魚姫が別途の府に腰掛けると、王子は顔を近づけて、内緒話をするように囁きました。

「ねぇ、お嬢さん。僕はとっても悪い人間だったみたいだ。だってとても大切なことを、すっかり忘れてしまっていたんだから。あの嵐の夜のこと」

 人魚姫はどきりとして王子の顔を見つめました。
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