第十一章 失意の幕切れ 第7話

文字数 3,002文字

「ああ、とてもきれいな月だね。月はどこからでも見えるけれど、ここだと、とてもはっきりと、神々しく見えるんだね」

 王子は人魚姫が美しい夜の海を見たかったのだと思い込み、すっかり油断していました。人魚姫は船のへりに近づいて、月へ手を伸ばそうと戯れるふりをして、わざと身を乗り出すようにしました。王子は危ないと思って、優しく手を添えてくれました。その時です。人魚姫はさりげなく、王子の足を払って、添えられた手をほんの少し引っ張って、海へ落としてしまったのです。

 水音がしたので、見張り番たちがかけつけました。人魚姫は真っ青になって、海を指さし身振り手振りで王子が海に落ちたと伝えました。驚き慌てたふりは見事だったので、見張りたちの誰も、人魚姫が王子を落としたなんて思いもしませんでした。

 彼らが大慌てで小さな船を下ろそうとしたり、ロープを投げようとしている間、王子は今にも波の間に沈みそうになっていました。

 人魚姫はためらわず、するりとへりを乗り越えて、海に飛び込みました。

 見張り番や起きてきた召使たちは、口のきけけない娘まで溺れてしまうと肝を冷やしましたが、彼女は海が故郷ですので、ひれが足に変わったとしても、泳ぎはお手の物です。そのまますいすいと流されていく王子に近づいて、その体を捕まえると、船へ戻ります。月が照らしてくれたおかげで、船の上の人々に、それがはっきりと見えていました。

 海に飛びこみ、全身が沈み込むと、人魚姫は海の底のお城に住んでいたころのことを思い出しました。まだ海に上へ行くことが許されなかった幼いころの、楽しく平穏な日々が無性に思い出され、なつかしさに涙があふれてきました。

 王子の体をつかむと、あの嵐の夜の記憶がよみがえります。今日の海は穏やかでしたが、目の前に迫ってきた壊れた船の破片や船荷の詰まった箱などが、再び目の前に現れたかのように錯覚しました。人魚姫は嵐の夜をやり直すように、自分にしか見えていない障害物を避けて泳ぎ、船の上から投げられたロープをつかみました。

 船の上に上がると、すぐに医者がやってきて、王子の介抱をしました。王子はすぐに目を覚ましました。

人々は口々に溺れた王子を人魚姫が助けだしたのだと伝え、人魚姫の勇気と王子への忠誠心、そして泳ぎの達者だったことなどを口々に褒めそやしました。

「そうか。君が助け照てくれたんだね。ありがとう。命の恩人だよ」

 王子はびしょぬれの人魚姫の頭を愛おしそうに撫で、軽く抱きしめました。本当は命の恩人どころか、海に突き落とした張本人なのですが、人魚姫のやり方がうまかったことと、まさか彼女がそんなひどいことをするはずがないという思い込みから、ついぞ真実に気が付かなかったのです。

 そればかりか、着替えをして船室に戻ると、こんなことまで言いました。

「君は僕の命を救ってくれたね。あの教会の娘と同じように。しかも真っ暗で恐ろしい海に飛び込むなんて、ひょっとしたら君も溺れてしまうかもしれなかったのに。僕のために命をかけてくれるなんて、本当に素晴らしい人だよ。

 ねぇ、僕はあと少しで到着する国の王女様とは絶対に結婚しない。それはもちろん心の中にいるあの娘のためだ。でもきっと父上も母上も諦めっこない。すぐに違う相手を探し出して押し付けてくるはずさ。僕は王子と言う立場に生まれてしまったから、いずれ妻を迎えなければならないからね。

 だから、国に帰ったら君と神様の前でずっと一緒に暮らすと誓ってもいいかな? 僕があの教会の娘を好きなのは、命を救ってくれたからだよ。だけど君もこうして僕を助けてくれた。いつかかならず誰かと愛を誓わなくてはいけないのなら、そして最愛の人とそうすることが叶わないなら、僕のために命を懸けてくれるような人と共に生きたい。だから、君と結婚したいんだ。いいかい?」

 ついに王子に気持ちが通じました。そしてずっとほしかった結婚の約束までしてくれたのです。人魚姫は喜びで涙を流し、何度も何度も強く頷きました。王子は穏やかに笑って感謝の言葉を何度も口にしました。

 王子は疲れもあって休んでしまいましたが、人魚姫はあまりの幸せに心が浮き立って眠れたものではありませんでした。命の恩人になれば王子の心を動かせると思い、王子をわざと海に落とした甲斐があったというものです。

 エルフリーデが王女の所へ行ってしまったのが悔やまれます。早くこのことを知らせたい。そして王女をどうにかするなんて無駄なことはやめてもらうのです。もう王子の心は人魚姫のものなのですから。

 そうして夜通し幸福を噛みしめていると、船の窓から光が差し込みました。水平線の向こうに朝日がかおをだしたのです。

 すると、微かに誰かが自分を呼ぶ声が聞こえました。それは懐かしい姉姫たちの声でした。甲板に出てみると、姉たちが海の上に顔を出していました。

「やっと会えたわ、馬鹿な妹。あら、やっぱりひれがなくなっている。いやだわ、足なんかはやして。すっかり人間みたいじゃない」

「昨日あなた、海に潜ったでしょう。それでおばあ様が、あなたの気配を感じ取って、わたしたちをよこしたってわけ」

「ねぇ、もう地上の世界は十分楽しんだでしょう。おばあ様もお父様もとっても心配しているのよ。早く戻ってらっしゃい」

 姉たちは口々にいいました。ですが人魚姫は首を振りました。もう海へ戻れません。

「馬鹿なことを。人間なんて信用できるものじゃないわ。あなたはひればかりじゃなくて舌まで失って、それで本当に王子様との間に愛が生まれると思う? それができなきゃ、あなたは海の泡になってしまうのよ」

「そうよ。今ならお父様が魔女にお願いして人魚に戻してくださるって。もし魔女が望むなら、人魚の宝をあげてもいいって言っているわ。それくらい、皆があなたを心配しているのよ。下らない意地を張るのはやめなさい」

 姉姫たちも妹がこの世から消えてしまうなんて、そんな悲しいことは嫌でしたから、言葉を尽くして説得しました。けれど人魚姫は海に戻ろうとはしませんでした。

(わたしはもう王子様の心を手にいれて、国に帰ったら神様の前で愛を誓うのよ。そうすればわたしは人間になれる。海の泡になって消えるなんて心配はもういらないわ)

 それを言葉で説明することが人魚姫にはできません。なのでもう人魚の国へ戻ることは無いと、きっぱり示すため、海に背を向けてすたすたと船室へ戻っていきました。姉姫たちが呼びかけても決して振り返りませんでした。やがて召使たちが起きてきましたので、姉姫たちはやむなく海の底へ戻っていきました。

 その頃エルフリーデは海の向こうの国の王女のもとへ着いていました。彼女はお城の召使に化けて王女の寝室のベッドの下に魔法陣を描きました。そして夜になり、王女がその上に眠っている間に、カエルを生贄にして呪いをかけました。すると、王女の喉が絞まり苦しみ始めました。しかし、みんな寝静まった後でしたので、気が付く人は誰もいません。翌日、召使が部屋に入った時には、変わり果てた姿になっていました。

 召使たちが泣き叫ぶのを見届けると、エルフリーデは貝殻で人魚姫の様子を見ました。

「あら、ようやく王子の心を手に入れたようですわね。これでわたくしの課題も終わり。高度な呪いも難しい薬も使ったことですし、一番良い評価を得られるはずだわ」
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登場人物紹介

ヘルガ

腰は曲がり、顔は皺だらけ、魔力が低く箒で飛ぶのも一苦労なおばあさんの魔女見習い。正式な魔女となるために参加した魔女試験で、シンデレラを幸せにするこという課題を課される。使い魔はネズミのラルフ。

マヌエラ

魔女試験に参加する魔女見習い。けばけばした化粧をした派手な女。ヘンデルとグレーテルを幸せにするのが課題。師匠同士が知り合いだったため、ヘルガのことは試験が始まる前から知っている。使い魔は黒猫のヴェラ。

エルフリーデ

魔女試験に参加する魔女見習い。長身で美しい若い娘。名門一族の出身である自負が強く、傲慢で他の見習いたちを見下している。人魚姫を幸せにするのが課題。使い魔は黒猫のカトリン。

イルゼ

魔女試験に参加する魔女見習い。聡明で勉強家であり、既に魔女の世界でその名が知れているほどの力があるが、同時にある国の王妃でもある。白雪姫の継母であり、関係性に悩んでいる。課題は自国民を幸せにすること。使い魔は黒猫のユッテ。

ヨハンナ

魔女試験に参加する若い魔女見習い。没落した名門一族の出身で、この試験で優秀な成績を修め館の魔女になって一族の復興させたいと願っている。ペドラとは因縁がある。課題はマルティンという王子を幸せにすること。使い魔は猫のエメリヒ。

ペドラ

今回の試験監督の補佐を務める館の魔女。じつは100年前の試験である国の王女に賭けた祝福の魔法の成就が、この試験中に決まるという事情を抱えている。胡麻塩頭で色黒の、陰気な魔女。使い魔は黒猫のディルク。

ケルスティン

今回の試験監督を務める館の魔女。軍服を纏い男装している妙齢の女性。魔女見習いたちの奮闘を面白がって眺めているが、気まぐれに手だししたり助言したりする。黒猫以外にも、ヘビやカラスなど複数の使い魔を操る。

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