【16-1】九天応元会(1)

文字数 3,011文字

その日永瀬晟(ながせあきら)は午後6時過ぎに仕事を終えると、研究室に居残っている学生たちに声をかけて回った。

彼らの中には遅くまで実験を続ける者もいるので、大抵は職員が先に帰宅する。
従って各部屋の消灯や施錠などは、最後に残っている学生の役割であることが多いからだ。

最後に教授室の外から、「お先に失礼します」と室内に声を掛ける。
すると中から、「お疲れ様」という蔵間の声がした。

研究室の出入口では、林海峰(リンハイファン)がいつもの様に居住いよく、永瀬を待っていた。
今日は珍しく、彼から夕食に誘われたのだった。

独身の永瀬は自炊が面倒なので、食事は大抵外食かテイクアウトで済ましてしまう。
従って林の誘いを断る理由は特になかったのだ。

「どこに行きましょう?」と林に訊かれたので、「お任せします」と永瀬は答えた。
どうしてもこれを食べたいとか、この店に行ってみたいという意欲が決定的に欠けているので、こういう時には必ず相手任せになるのが永瀬の常だった。

我ながらつまらない男だと思う。未だにパートナーの1人すらいない理由の1つがこれなのだろうと、永瀬は思わなくもない。

「では、最近駅前に出来たイタリアンでよろしいですか?」
と林が提案してくれたので、彼は素直に「ええ」と肯いた。
そんな店が出来たことすら知らなかったが、永瀬に特に異論はない。

駅までの間は、あれこれと雑談をしながら歩いた。
林は既にすっかり研究室に溶け込んでいて、職員や学生たちとも良好な関係を築いていた。
学生たちの日常については、永瀬よりも詳しくなっているくらいだ。

レストランは、駅から程近いビルの2階にあった。
内部は照明を少し暗くして、テーブルの間隔も広めにとってあり、落ち着いた雰囲気の感じの良い店であった。

しかし客席は半分も埋まっておらず、やはり新型コロナの影響なのだろうか――と、永瀬はぼんやりと考える。

メニューを見ると、量も値段も手頃だったので、2人ともライトディナーコースを注文した。
永瀬はグラスワインを頼んだが、自分はアルコールを(たしな)まないのでアイスティーにすると林は言った。

前菜には鱸のカルパッチョが出た。
すると林が、
「魚のカルパッチョというのは日本発祥のアレンジだそうですね。

イタリアでは元々、牛フィレの生肉にパルミジャーノチーズをかけた料理だそうですが、日本で刺身文化をベースに工夫されたそうです。
今ではイタリアでも逆輸入されて、出す店が増えているようですよ。

これは酸味が程よく聞いていて、とても美味しいですね」
と言ったので、永瀬はすっかり感心してしまった。
まったく何でも知っている男である。

「日本には、美味しい食事を提供してくれる店が沢山ありますね。しかも価格がリーゾナブルで、羨ましい限りです」
「中国にも、外国の料理を出すレストランはあるのでしょう?」

「ありますが、高価な店が多いです。
それにバラエティは日本の方が遥かに多いですね」

「そうなんですか。
しかし日本でも、高級料理店は、私なんかには手が届かないくらい値段が張りますよ。
そう言えば、林さんの郷里の四川の料理は、とても辛いんですよね?」

「はい、とても辛いです。
四川料理の味の基本は麻辣(マーラー)ですが、麻は痺れる、辣は辛さを意味します。
つまり、舌が痺れるような辛さという意味なのです」

「最近は日本でも、四川料理の専門店が増えていますが、行かれたことはありますか?」
「一度ありますが、美味しかったですよ。

ただ本国に比べると辛さがマイルドでした。
やはり日本人の好みに合うように、アレンジされているのだと思います」

「そうなんですか。やはり本場の料理は辛いんでねえ」
「永瀬先生も一度、食されてみてはいかがですか?」

「あ、遠慮しておきます。辛いのは苦手で」
慌てて言う永瀬を見て林は、さも可笑しそうな表情を浮かべた。

この様に他愛のない会話と共に食事は進んだ。
コースはサラダ、トマトソースのパスタ、仔牛肉のピカタと続き、最後にデザートのパンナコッタとエスプレッソが出て終わりだった。

料理は全体に量が控えめで、上品な薄味だったので好みに合っていた。
永瀬は久しぶりに美味しいものを食べた気がして、とても満足だった。
普段の雑な食事とは大違いだ。

「林さん。日本には、もう慣れましたか?」
アルコールのせいで少し気分が高揚していたのか、永瀬は林の近況について訊いてみた。
すると林は、
「皆さんがとても親しく接して下さるので、思っていたよりも早く慣れることが出来ました。
ありがとうございます」
と、永瀬に向かってペコリと頭を下げた。

「と、とんでもない。
学生たちも林さんから色々と刺激を受けているようで、助かってます」

永瀬は少し狼狽え気味に答えると、それを誤魔化すように、
「研究室はどうですか?」
と曖昧な問いを投げ掛けた。

それにも林は、微笑を浮かべながら答える。
「皆さん、和気藹々(あいあい)とした雰囲気で、真面目に研究に取り組んでらっしゃいます。
それにはとても感心しています。ただ…」

最後に林が言い淀んだので、永瀬は「ただ?」と思わず彼の言葉を反復する。
すると林は、表情を改めて言った。

「基本的には皆さん仲良くされているのですが、やはり人間の集まりですので、多少の行き違いはあるようですね。
先日も、梶本先生と4回生の本間雪絵(ほんまゆきえ)さんが、少し言い争いのようになっていました。

箕谷(みのや)先生が仲裁に入られたのですが、あれ以来、梶本先生と本間さんとの関係がややギクシャクしているようで、少し気になっております。
永瀬先生はお気づきですか?」

「ええ、薄々は感じていましたが、気にする程ではないと思っていました。
林さんには、2人がかなりギクシャクしていると映っているのですか?」

「そうですか。
永瀬先生がそう(おっしゃ)るのでしたら、私の杞憂に過ぎないのでしょう。
研究室の方々は皆、穏やかな雰囲気ですので、私が過大に受け取っていたのかも知れませんね。
詰まらないことを言って申し訳ありませんでした」

林が真面目な表情で詫びたので、
「いえいえ。そんなに気になさらないで下さい」
と、永瀬は慌てて返した。

本間雪絵という学生は意思表示がはっきりしていて、学生の間でのリーダー格だった。
顔立ちやスタイルもよく、同級生や院生の男子の間でも人気がある。

そのせいかどうかは知らないが、教員、特に助教の2人に対する、多少反抗的ともとれる態度が以前から見受けられたのだ。
本人にその積りはなくても、周りにはその様に映っている。

それに対して箕谷は苦笑い程度で済ませるのだが、生真面目な梶本はまともに受け取ってしまう傾向があった。
言い争いというのは、そのことが原因で起きたのだろうと、永瀬は思っていた。

しかし周囲を冷静に見ている林の眼に、ギクシャクしていると映っているのであれば、自分が思っているより深刻なのだろうかと、永瀬は改めて最近の2人の様子を思い出そうとする。

その時、食後のエスプレッソを飲み終えた林が、改まって言った。
「さて永瀬先生、本日は夕食にお付き合いいただき、ありがとうございます。
実は先生にお話ししなければならないことがあるのですが、この後のお時間のご都合はいかがでしょうか?」

永瀬は多分そうだろうと予測していたので、
「ええ、特に用事はないので構いませんよ。お話というのは?」
と林に応じた。
こういうこともあろうかと、特に用事も入れていなかったのだ。

永瀬の(うべな)いに、「ありがとうございます」と微笑で答え、林は(おもむろ)に話を始めた。
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