【07-1】ブライアン・ケスラー博士の所見(1)

文字数 1,987文字

翌日バドコックは普段より早めに家を出ると、ロンドン市内中心部へとクーパーを走らせた。
向かう先はキングス(K)カレッジ(C)ロンドン(L)である。
今回の被害者の司法解剖結果について、担当者であるブライアン・ケスラー博士から直接聞き取るためだった。

自宅から小1時間程でKCLに着いたバドコックは、正門脇の警備員の詰所を覗いた。
顔馴染みの警備員がいたので来意を告げ、構内へと入る。

ケスラーのいる研究棟に程近いパーキングロットに空きがあったので、ケスラーはそこにクーパーを停め、車外に出た。
昨日とは打って変わって、強い日差しが容赦なく照りつけてくる。

――最近の気候は一体どうなってやがるんだ?
バドコックは吹き出す汗をハンカチで拭いながら空を見上げ、心中でそう毒づいた。

彼の若い頃は、この時期になると既にジャケットが必要だったのだが、ここ数年の外気温は86°F(30°C)を超えることも珍しくない。
今もインナーの上にシャツ1枚という身軽な出で立ちにも拘わらず、止めどなく汗が噴き出してくる始末だ。

急いで空調の効いた研究棟に入ると、エレベーターで3階まで上がり、ケスラーの研究室のドアを叩く。
すぐに室内から「どうぞ」という返事が返ってきた。

事前に予告しておいたので、ケスラーは彼の到着を待っていたようだ。
言われるままに部屋に入ると、振り向いたケスラーが無言でデスク脇の椅子を勧める。

そして腰かけたバドコックに向かって開口一番、
「また世間が騒ぐぞ。大変だな、フィル」
と、相変わらずの皮肉たっぷりの口調で言った。
心無しか、口元が嘲笑っているようにも見える。

ヤードの殺人科に配属されて以来、ケスラーとは20年近い付き合いだったが、バドコックは未だにこの男のことが好きになれない。
と言うよりも、仕事でなければ顔も見たくない程、はっきりと嫌いだった。

その主たる原因はこの男の態度だ。
皮肉屋で、傲慢で、自信家のこの男には、どうやら自分たち刑事は、すべて馬鹿に見えているらしい。

それはこの男の常日頃の言動に如実に現れていて、こうして面と向かって話す時には、いつも皮肉たっぷりの、人を小馬鹿にした様な笑いを常に口元に浮かべている。
今や見慣れてしまったその表情は、間違いなくこの男は自分を見下しているのだろうと感じさせるに十分だった。

例え本人にその自覚がなかったとしても、接する相手を例外なく不快な気分にさせる、ケスラーとはそんな男だった。
つまりは物凄く嫌な野郎なのだ。

バドコックは反射的に込み上げてきた怒りを鎮め、
「おかげさんで上からも散々絞られてるよ」
と、投げやりに言った。

そんなぞんざいな口が利ける程、互いの距離が近くなっているのも確かだが、返ってそのことが彼の(かん)(さわ)る。

「無駄話はいいから、さっさと鑑定結果を聞かせろよ」
バドコックが催促すると、ケスラーは作成済みの解剖検案書を彼の前に押し出し、表情も変えずに言った。

「結論から言えばこれまでと同一犯だろう。DNA鑑定に少し時間がかかるが、こんな馬鹿げたことをする犯人が複数いるとは考えられないし、考えたくもない」
それにはバドコックも同感である。

「しかしフィル。同一犯ではあるが、少し様子が違ってきているぞ」
「どういう意味だ?」

「今回の被害者もそうだったが、前回の被害者につけられた傷の大きさが最初の頃と随分違ってきている。検死報告書にも書いてあっただろう。見てないのか?」
最近報告書には直接目を通していなかった。部下も見落としていたようだ。

バドコックは、ばつの悪さを押し殺して、
「いいからその先を言えよ」
と彼を促した。
するとケスラーは口元に皮肉な笑いを浮かべながら、突拍子もないことを言い始めた。

「端的に言えば被害者の頸部に残されている犯人の口裂幅、つまり口の横幅だな。
その幅が最初の被害者と、最近2件の被害者のそれとでは、倍以上も違っている。
つまり犯人の口が倍以上大きくなっているということだ」

「口がでかくなってるだと?本気で言ってるのか?」
バドコックはその言葉に意表を突かれ、思わず訊き返していた。

相手がケスラー出なかったら怒鳴りつけていただろう。
それ程信憑性に乏しい説だった。
彼の常識では、そのようなことは絶対にあり得ない。

「あいにく冗談でも妄想でもない。科学的に検証された事実だよ」
しかしケスラーは、机上の解剖検案書の該当箇所を指し示しながら、臆さず言い放った。

「いいか?フィル。最初の被害者スーザンの左頸部に残されていた犯人の口裂幅はほぼ2インチと推定される。
少し大きめではあるが普通人の平均から、それ程逸脱していない。
しかしこれを見てみろ。6番目の被害者エマ・バウアーに残されたものは4.5インチを超えている。
つまり僅か2か月にも満たない期間に、犯人の口裂幅が倍以上に広がったということだ」

「馬鹿なことをいうな、ブライアン。そんなことはあり得ない」
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