【10-2】追い詰められた咬殺魔(2)

文字数 2,270文字

ジェシカ・ミルトンは同僚のドナルド・モブスとコンビを組んで、インフィールド自治区東部にある公園内を巡邏していた。
この公園は彼女の担当区域外にあるのだが、今日の午後になって大規模な動員が行われ、彼女と相棒のモブスも召集されたのだ。

ジェシカたちは当初、この地域を中心に張られた幾つかの非常線の一つに配備された。
彼女が指定された現場に行ってみると、先着していた警官たちの中に常にない緊張感が溢れていた。

公式な指示は出ていなかったが、現在ロンドン中を震撼させている連続殺人犯がついに特定され、逃走しているという噂が流れていたからだ。
そのせいか現場は、彼女がヤードに入ってから、これまでに経験したことがない程に騒然とした雰囲気に包まれていた。

しかしその容疑者らしき男が、非常線に掛かることはなかった。
そして2時間程前にジェシカたちの組は急遽非常線を離れ、この公園内の巡邏を命じられたのだ。

彼女たち以外にも9組の警官が公園の巡邏に配備されていた。
公園内の担当区域を決め、警官たちが2人1組で園内の巡邏を開始してから既に1時間以上が経過していた。

目的は明確に告げられていなかったが、不審者が公園内に逃げ込んで潜伏しているようだった。
それが連続殺人事件の容疑者なのかどうか、相変わらず明確な説明はない。

しかしその不審者と関連しているのかどうか分からなかったが、妙な噂をモブスが拾ってきていた。
この髭面の中年男は、その呑気そうな顔からは想像出来ないくらい、噂話の収集が得意だった。

皆その顔に騙され、警戒心を解いてしまうのだろうと、ジェシカは常々想像している。
そのモブスによると、公園に逃げ込んだのがゴブリンだと言うのだ。
「ゴブリン?何それ?」

ジェシカの当然ともいえる反応にモブスは、
「俺も信じている訳じゃねえよ。
しかしそういう目撃情報が相次いでいるんだ。
それだけじゃなく、バドコック警部までそのゴブリンを見たと言うんだぜ」
と、笑いを含んで追加した。

「バドコックって、あの?」
「ああ、あのバドコックだよ」

「あの、いつも仏頂面をして、部下を顎で使いまわしている、尊大この上ない警部様が?
ゴブリンを見たって(のたま)ってるの?信じられない!」
そう言いながらジェシカは爆笑した。
モブスもつられて苦笑を浮かべる。

バドコックを知る人間からすれば、彼がゴブリンを見たなどと証言するのは、イギリス首相がエイリアンとランチを共にしたと主張するのと同じくらい、信憑性のない与太話に過ぎないのであった。

「それにしても暑いな」
モブスが話題を切り替えると、ジェシカも賛同して肯いた。

既に午後6時になろうとしているが、日が暮れる気配もない。
気温は90°F(約32°C)を超えているようだ。

汗で濡れた制服が背中に纏わりついて気持ち悪い。
こんな日の巡邏は最悪だ。

いつまで続くのだろう?――とジェシカが思った時、背後から何かが近づいてくる気配を感じた。
とっさに振り向いたジェシカが見たのは、何か大きな裂け目の様なものだった。

中は白とピンクと赤が入り混じった色をしている。
それが大きく開かれた口だと認識する前に、ジェシカの左の首筋を衝撃が襲った。

反射的に体を後に引こうとしたが、両腕を強い力で掴まれていて身動き出来ない。
ほとんど抵抗する間もなく、ジェシカは左の首筋の肉をごっそりと噛み切られ、意識を喪失した。

それはわずか数秒間の出来事だった。
その間モブスは、相棒を襲った突発的な状況を咄嗟に理解することが出来ず、巨大な口がジェシカに噛みついて首筋の肉を食い千切るまでの一連の動きをフリーズしたままで見ていた。

しかし頸部から鮮血のシャワーを噴き出しながら彼女が崩れ落ちていく姿に、突然現実へと引き戻される。

彼の目の前に立っていたのは、人の姿に似た怪物だった。
顔の下半分が膨らんで、上部の倍程もある。

その下半分を横に切り裂くように口裂が広がり、少し開いた口からは血の付着した歯が覗いている。
口の端からはジェシカの血が涎のように滴り落ちていた。

鼻は膨らんだ口の部分に押し上げられて上を向き、二つの鼻腔が顔の真正面を向いている。
頭部には所々毛髪が残っているが、殆ど禿げ上がっていた。

そして貧弱な体幹に対して、両腕の筋肉が異常に発達している。
彼はその時になって初めて、目の前の怪物が上半身裸であることに気づいた。

モブスは先程聞いたゴブリンという怪物の姿を知らなかったが、目の前のこの怪物こそがそれだろうと思った。
彼は怒りと恐怖に駆られ、腰の警棒を引き抜くことも忘れて、その怪物に向かって突進した。
口から意味不明の怒号を発しながら。

しかし彼のその攻撃は、あっさりと撃退されてしまった。
異様に発達した腕の一振りで弾き飛ばされてしまったのだ。

モブスが尻餅をついたまま見上げた怪物の顔は、不思議な表情をしていた。
眼を大きく見開いたその相貌には、驚き、怯え、悲しみ、怒り、そして何よりも当惑の感情が強く表れている様に、彼の眼には映った。

モブスが立ち上がって腰から警棒を抜き出そうともがいている間に、その怪物は近くに藪に走って逃げ込んでしまった。
そして彼が漸く警棒を手にした時には、怪物は深い茂みの中に姿を消していた。

ジェシカが襲われてから怪物が逃げるまで、ほんの1、2分の間の出来事だった。
モブスは狼狽えながらも、倒れたジェシカを抱き起こしたが、彼女の体は既に大量の血を失い冷たくなっている。

辺りの地面は、流れ出した彼女の血で真っ赤に染まっていた。
その時になって漸く、騒ぎを聞きつけた数組の警官が駆けつけてくるのが見えた。
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