【09-3】急展開(3)

文字数 1,889文字

ようやく息が落ち着いたので、ゆっくりとした足取りで廊下を奥に向かう。
建物の中を、極力足音を起てないようにして歩くのは、長年培った刑事としての習性であった。

奥に進むに従って、異臭が鼻を突いて来る。
立ち止まって一段と薄暗くなった最奥の部屋の前の廊下に目を凝らすと、床になにか液状のものが溜まっているのが見えた。

――あれは血じゃないのか?
バドコックは嫌な予感と共にそう思った。

一瞬応援を呼ぼうかと迷ったが、とにかく床に広がるものの正体を確かめてからだと思い直し、ゆっくり部屋の前まで進む。
ドアの前でしゃがんで確かめると、そこには紛れもない血溜りが出来ていた。

バドコックが立ち上がり、応援を呼ぶためにポケットの携帯電話を取り出そうとしたその時だった。
ドアが勢いよく開かれ、室内から誰かが飛び出して来た。
そしてその勢いで、バドコックは血溜りの上に弾き飛ばされてしまった。

飛び出して来たのは男のようだった。
そいつは血溜りに尻もちをついたままのバドコックの方を振り向くと、驚いたような表情を浮かべる。

廊下の暗がりの中に垣間見えたその顔は、人間のものではなかった。
頭部には所々毛髪が残っているが、ほとんど禿げあがっている。

それでも顔の上半分だけは人間の名残を残しているが、その下半分、口の周辺部は左右に膨らんでいて、上部の倍程の大きさがある。
鼻は突き出た口の部分に押し上げられて上を向き、2つの鼻腔が真正面を向いていた。

そして何よりも異様だったのはその口だった。
口裂は左右に、通常の倍以上の長さまで広がっていて、膨張した顔の下半分が、真ん中からぱっくりと裂けた様に開いていた。

その隙間から覗く歯は赤く染まっている。
おそらく血だろう。

その体形も異様だった。
体幹や脚は少し痩せた人間のそれだったが、両腕が異様に発達しる。
人体構造をまるで無視したような、バランスの悪い体形だったのだ。

一度見たら決して忘れることの出来ないその容貌を、バドコックの瞼にしっかりと焼き付けたその者は、すぐさま踵を返すと階段の方に物凄いスピードで駆けて行った。
その後姿を、バドコックは呆然と見送るしかなかった。

男が階段を駆け下りる音を聞きながら、バドコックはようやく我に返った。
転んだ拍子に腰をしたたか打ったようで、立ち上がろうとすると強い痛みが走る。
それでも何とか壁に手を突き、立ち上がってみると、両手も服も血まみれだった。

逃げた男を追いかけようかと一瞬思ったが、この為体ではとても無理だろうと思い直す。
そして腰の痛みに耐えながらヤードに電話を掛け、緊急配備と部下の応援を依頼した。
漸くそこまで済ますと、バドコックは開け放たれたドアから室内の様子を確認することにした。

床の上を引きずった様な血痕がドア付近から室内へと続き、その先には女性の死体らしきものが俯せになって横たわっている。
その周辺にはかなりの血溜りが出来ていた。

バドコックは慎重に室内に入ると、被害者の状況を確認した。
予想通りだが、彼女は既にこと切れていた。

振り返ってドア付近の床に目を向けると、そこにはピザが散乱している。
おそらく目の前に横たわっているのは、先程立ち寄ったパブの、運の悪い新米店員なのだろう。

そしてバドコックは、今しがた自分が見たあの異形の者が、彼が追っている連続殺人犯に間違いないと確信した。
その犯人を目の前にしながら、おめおめと取り逃がしてしまったのだ。

応援を呼んでからここに来なかった自身の失態に、彼は激しく舌打ちをした。
室外に出たバドコックは、ドアの前の血だまりを避けて廊下の壁にもたれ、ヤードからの応援を待った。

腰のあたりに周期的に強い痛みが走る。
滅入りそうな気分の中で、バドコックは自分が先程目撃した男の顔を思い浮かべていた。

――あいつは一体全体何だったんだ?
――あれは人間だったのか?
――しかし、あんな人間がいてたまるか。

――それとも自分は幻覚でも見たのか?
――もし自分が見たものが現実であったならば、ケスラーの野郎が(のたま)った戯言(ざれごと)が事実だったということになる。
――奴はこう言った。犯人の野郎の口が裂けていると。

確かに自分が目撃したものは、あの忌々しい検死医が予測した犯人像そのままだった。
だとすると、ケスラーが主張する犯人の変化、最初は普通の人間だった者が、短期間にあの人間離れした姿になったというのも、事実だということになる。

――事実だと言うのなら、あの噛みつき野郎に何が起こったと言うんだ?
バドコックは思考を放棄したくなった。
自分が半世紀以上かけて築き上げてきた常識が、全く無意味だったという誰かの宣告を聞いた気分だったからだ。
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