【32-3】惨劇の始まり(3)

文字数 2,804文字

急いで大学に戻った永瀬は、取るものも取りあえず蔵間に事態を報告することにした。
1人では不安だったので林にも同席を求めると、林は快く同意してくれた。

林の冷静さはこういう場合、非常に頼りになるので、永瀬は正直ありがたかった。
教授室で2人を迎えた蔵間に、林が率先して状況を説明してくれた。

一通り林の話を聞いた彼は、
「箕谷君がそんなことになったとは、残念だね」
と、あまり感情のこもらない声で言った。

その口調の冷淡さが、永瀬には無性に腹立たしかった。
――自分の部下が殺害されたというのに、どうしてそんな態度が取れるんだ!

蔵間には確かに、周りを拒否する様な峻厳さはあったが、かと言って長年研究室にいた部下の死に、そんな冷淡さを見せるような人物ではなかったはずだ。
彼の中の<神>は、蔵間の人格は元のままだと言っていたが、今の彼の言動からすると何らかの影響を受けていると思わざるを得なかった。

永瀬が蔵間に向かって何か言いかけると、
「蔵間先生、仰る通り大変残念なことです」
と、横から林が遮るように言った。

そして、
「箕谷先生のご家族にもお知らせしなければなりませんし、警察やマスコミの対応も必要です。
これから永瀬先生と私で手分けして対処したいと思いますが、よろしいでしょうか?」
と、蔵間の了解を求める。

――おそらく彼は、永瀬の内心の怒りを察して、機先を制してこの場を収めてくれたのだろう。
そう思って、永瀬は冷静さを取り戻す。

「ああ、そうしてくれたまえ。よろしく頼んだよ」
と、蔵間は相変わらず感情のこもらない言葉で林の申し出を了承した。

教授室を出ると林は、
「永瀬先生、まずは箕谷先生のご家族にご連絡いただけますか?
その間に私は、富安先生の予定を確認しておきますので」
と言い、永瀬に向かって頷く。

その表情は、永瀬の気持ちを察していると物語っていた。
「そうします。ありがとう、林さん」
永瀬は素直に礼を言うと、箕谷の実家に電話を掛けることにした。

長野にある実家にはすぐに電話が繋がったが、驚いたことに警察から既に連絡が行っていたようだった。
電話に出た箕谷の兄嫁に当たるという女性は、彼の両親と兄が遺体の確認のために既に東京に向かったことを教えてくれた。

礼を言って電話を切った永瀬は、あの惨たらしい遺体を思い出す。
それ見た時の両親の気持ちを思うと、胸が痛んでどうしようもなかった。

――よりによって何故あんな酷い殺し方を…。
そう思うと、犯人への憤りが込み上げて来る。

「永瀬先生、学部長がこれから時間を取っていただけるそうです」
その時突然後ろから声が掛かったので、驚いた永瀬は思わず飛び上がりそうになる。

振り向いた永瀬を、どうされました?――という顔をして林が見た。
「あ、ああ、すみません。考え事をしていたものですから。それよりも林さん、箕谷君の実家には既に警察から連絡が行っていたようです」

永瀬が慌ててそう言うと、
「そうですか。日本の警察は手際が良いですね。では富安先生の部屋に参りましょう」
と言って林が先に立って歩き出したので、 永瀬も慌ててそれに続く。
学部長室に行くと、富安学部長は既に応接用のソファに座って永瀬たちを待っていた。

勧められた席に座ると、富安が開口一番、
「状況を詳しく説明していただけますか?」
と言ったので、例によって林が理路整然とした語り口で状況を説明してくれる。
そして富安は彼の話に一々肯いている。

永瀬は、研究生に過ぎない林が永瀬を差し置いて状況を説明し、富安の方も何の疑問も持たずにそれを受け入れていることに、少なからず違和感を覚えたが、
――まあその方が、話が早いから。
と思い、敢えて口を挿まなかった。

林の話を聞き終わった富安は、
「これからの対応を決める必要がありますね」
と言って、デスクに戻り受話器を取る。
そして学部事務室に内線を掛けると、事務部長と教務部長を呼び出した。

事務部長と教務部長の部屋は同じ本部棟にあるので、2人は5分もしないうちに連れだって学部長室にやって来た。

2人に席を勧めた富安は事件の概要を掻い摘んで伝え、
「今後起こり得る状況の対応を検討しましょう」
と言った。

そして林に向かって、
「林さん、これからどのような準備が必要だと思いますか?」
と尋ねる。

事務部長と教務部長は少し怪訝な表情をした。
何故林に訊ねるのか、不審に思ったからだろう。
永瀬には2人の気持ちが手に取るように分かった。

しかし林は涼しい顔で、整然と今後発生することが予測される事態と、その対応について語り始めた。

「重大なイヴェントは2つあります。
まずは警察の家宅捜索への対応ですが、学内自治の原則を考えますと、無制限に捜索範囲の拡大を許すのは得策ではありません。

もちろん研究室内の捜索は受け入れざるを得ませんが、それ以外の場所については拒否すべきかどうか、顧問弁護士の先生にご相談する必要があると思われます。

富安先生。学長先生に状況をご報告の上、顧問弁護士の先生と協議を始めて頂けますか?
警察はすぐにも来る可能性がありますので、お急ぎ下さい」

「分かりました」
富安はその指示に素直に頷いた。
最早完全に林のペースである。

「次にマスコミ対策です。
柴田さん、各門の警備室にご連絡いただいて、マスコミ関係者を含む学校関係者以外の者の学内への立ち入りを拒否するよう、ご指示いただけますか?」

次は事務部長への指示が飛んだ。
柴田も、「はい、分かりました」と素直に頷く。

「マスコミへの対応は、ある程度事件の概要が分かった時点で、記者会見を開いて整理した情報を伝える方がよいと思われます。

どのような情報を発表するかについても弁護士の先生と協議して決める必要があると思いますが、学生や学校への無秩序なコンタクトを避けるために、日時と会場だけは事前に発表して、それ以前の情報提供はしないことを、先にこちらから釘を刺しておきましょう。

柴田さん、この件もよろしくお願い致します。」
「承知しました」
その返事に、「ありがとうございます」と言って、林は最後に教務部長を見た。

「松岡先生には、学生の皆様へのケアをお願い出来ますでしょうか。
まだ後期の開講までは少し日にちがありますが、すぐに大学のウェブサイトを通じて、内外向けのメッセージを発信された方がよいかと思われます。

発信する内容につきましても、事前に弁護士の先生と協議した上で決定頂けますか?」
「分かりました。学部ではなく、大学全体のウェブサイトで公表した方がいいですね?」

「はい、そのようにお願い致します。では皆さま、当分の間は色々と大変かと思いますが、ご協力よろしくお願い致します」
林はその場の全員を見まわして、そう締め括った。

――これでは誰が責任者なのか分からないな。
そう思った永瀬は苦笑を禁じえなかったが、同時にこの大学がこの男に乗っ取られるのではないかという妄想が浮かんで、寒気を覚えずにはいられなかった。
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