【42-2】魂の帰還(2)

文字数 2,622文字

「永瀬先生に連れられ、私が初めて研究室を訪れた時、あなたは1人で食事をされていましたね?」
「そう、あの時は、教室の留守番登板で、お弁当を食べていた」

「私が自己紹介すると、あなたは少し恥ずかしそうに、挨拶を返してくれましたね。
あの時あなたは、何を思っていたのですか?」

「私は初対面の人が苦手だから。
でも確か、日本語が上手だなと思った」

「ありがとうございます。
私はあなたのことを、とても穏やかで優しそうな方だと思いましたよ。

日本に来たのは初めてでしたので、あなたの様な方に接して、正直なところほっとしました」

「優しい。ほっとした…」
影は林の言葉を繰り返す。

「あの時のあなたを、私は忘れません。
あれが梶本恭子さんという人の本当の姿だと、今でも信じています」

「私の本当の姿」
「そうです。あれこそが梶本恭子という人なのです」
影は沈黙した。

「梶本さん、あなたに1つだけ、教えて頂きたいことがあります」
「何?何ですか?」
影の口調が、穏やかなものに変わった。

本間雪絵(ほんまゆきえ)さんのことです」
「本間、雪絵…」

「そうです。
彼女が消息を絶った時、箕谷さんはまだ研究室に顔を出していました。

つまり彼女は、箕谷さんよりも先に、貴方が殺害したと思われます。
違いますか?」

「そう、私が殺した」
「どうして彼女を?」

「ここに逃げ込むところを見られたの。
だから怖くて。

気がついたらここにいて。
あの子、凄く怯えてて。

大声を出そうとしたから。
私も怖くなって…」

「それはあなたが、今の様に、怒りのオーラを纏う前の出来事だったのですね?」

「そうだけど。
まだ今みたいじゃなかったけど。

でも体調は随分と悪かった。
体中が重くて痛くて…」

影-梶本恭子は、既に現在の自身の姿を、過去のものと比較できる程に自覚していた。

「そうですか。
既にあなたの体の変化は始まっていたんですね?

ああ、私はそうなる前にあなたを訪ねるべきだった。
そうすれば、取り返しがついたかも知れない。
本当に申し訳ありませんでした」

「どうして貴方が、私に謝るんですか?」
影の口調は、既に変わっていた。

「私はおそらく今回の異変を、誰よりも早く察知していたからです。
それなのに何一つ積極的な働きかけをしていなかった。

それが私には、出来ていたにもかかわらずです。
何と不甲斐ない。

あなたに怒りのオーラを纏わせてしまった張本人は、もしかしたら、私だったのかも知れない」

影は林の言葉に沈黙している。
影を包んでいた怒りの色は、既に消えつつあった。

その大きさも、今では林と同じ程度まで縮んでいる。
林は影に向かって、再び話しかけた。

「あなたは本間さんに対して、殺意はなかったのですね。
ただ恐怖が、あなたに芽生え始めていた力を行使させてしまった。

私はあなたが何故、彼女を殺害してしまったのか不可解でした。
その時あなたが、この場所で、彼女と遭遇していなかったなら、あなたは誰も傷つけてはいなかったかも知れない。

何という偶然!
何という不運!
これがもし、誰かが仕組んだ予定調和だったなら、何という悪意に満ちた企みなんだ!

あなたは恐怖で一線を越えてしまった。
そうだったんですね?」

「分からない。
でも私は本当に怖かった。
自分をあの子に見られたのが怖かった。

だから頭が混乱して…。
ごめんね、雪ちゃん」

最後に影は呟いた。
そして影は静止し、急速に(しぼ)んでいった。

「もはや私の干渉は不要ですね」
その時世界のどこかから、<神>の声がした。

「ご協力いただきありがとうございます。
あなたのおかげで梶本さんは、本当の自分を取り戻すことが出来たようです」

「貴方の様な人間と接触したのは、初めての経験です。
私がいくら試みても、この人の怒りを消滅させることが出来なかった。
貴方は何か、特別な能力を持っているのですか?」

「いえ、特別な能力などありません。
私が梶本さんに対して抱いていた感情を、そのまま彼女に伝えただけです」

「感情という人間の生成物を、私は所持していません。
それは私にとって有害だからです。

私がこの人の怒りを沈静化出来なかった理由は、私が感情を所有していないからなのですね?」

<神>の問に林は答えず、
「では私はこの世界から、そろそろ私の世界に戻ろうと思います。
その前に、あなたにお聞きしたいことがあります」
と言った。

「受諾します」
「梶本さんの余命は、あとどのくらい残されているのでしょうか?」

「余命とは、生命活動が停止するまでの期間のことですね?
私はそれに関する正確な情報を貴方に伝達することが出来ません。

しかし心機能の低下状況から、おそらくこの人の余命は、現在から数えて30日より少ないと推察されます」
「そうですか…」

そう言った林の心を、梶本恭子への憐憫、彼女を襲った不運への怒り、そして拭いようのない寂寥感が次々と通り過ぎて行った。
彼の目の前には、すっかり小さくなってしまった影が、(うずくま)っている。

しばらくその影を見ていた林は、思い出したように<神>に問うた。
「あなたはこれから、梶本さんが亡くなるまで、この世界におられるのですか?」

「私には他に選択肢がありません」
「実はもう1つ選択肢があります」

「それは、どの様なものですか?」
「このまま私と共に、私の精神世界に移動することです」

「その様なことが可能なのですか?」
「可能です。

何故ならば、今私は梶本さんの世界と、私の世界を繋いでいるからです。
そしてあなたを伴って、私の世界に移動させることが出来るのです」

「私は、その様な人間が存在するという情報を所有していません。
やはり貴方は、特殊な能力を持つ人間であると推察されます。

しかし私は、貴方の提案に従うことは出来ません」
「何故ですか?」

「先程貴方に伝達したように、私の構成要素のかなりの部分が、この梶本恭子という人と融合しています。

貴方の世界に移動するためには、この梶本恭子という人と融合している私の構成要素の一部を放棄しなければならないからです。

しかしそうすることによって、私は、私の構成要素の多くを喪失し、私という存在を維持することが出来なくなります。
結論として私は、貴方の提案を拒絶します」

「承知しました。
では、私はこのまま私の世界に戻ります。

もう二度とお会いすることはないと思いますが、あなたから知り得た情報は私にとって非常に貴重なものでした。
最後にお礼を言わせてもらいます」

そう言いながら林は、世界のどこへともなく頭を下げた。
しかし最早、<神>からの応えは返って来なかった。
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