【17-3】林海峰の回想―父、林紫嶺(3)

文字数 1,850文字

林海峰(リンハイファン)が意識を取り戻した時、彼は曖昧な色合いの中にいた。
最初彼は、自分が意識を失っている間に時間が経過し、いつの間にか黄昏時になったのかと思った。

しかし周囲の色は、彼が知っている世界の、光の明暗の度合いによって作られる色とは明らかに異なっていた。
そこには確かに色があるのだが、それがどのような色なのか認識出来ないのだ。
例えるならば、夢の中で見る色の様だった。

――自分は夢を見ているのだろうか。
海峰はそう思った。
しかし潜在意識が、そこが夢の世界であることを明確に否定している。

彼は自分が今、これまで自分が知っていたものとは違う世界にいることに気づいたが、不思議と恐怖心は湧いて来なかった。
幼少期に、このような世界を垣間見た記憶が蘇って来たからだ。

その世界はかなり薄暗かったが、かと言って周囲の光景が見えなくなる程ではない。
そこはモノトーンの世界ではなく、様々な色彩を持っていることは判るのだが、やはり個々の色を特定することは出来なかった。
ただ、全てが薄暗い色調だという印象だけがあった。

海峰が一歩前に踏み出すと、周囲の様々な色が彼の全身に纏わりついて来た。
まるで個々の色が意思を持っているかのようだ。
その感触は、海水よりも少し粘性の高い液体のようだった。

海峰は足元を踏みしめてみたが、地面を踏んだ時に感じる反作用は、足の裏に返って来なかった。
かと言って足が沈み込むようなこともなかった。
頼りないその感触は、何か未知の物質を踏んでいるようで、とても不安定だった。

――自分の足元にも、周囲を取り巻いている色のような、不可思議な物質が広がっているのだろうか。
海峰はそう思ったが、それを意識し過ぎると、自身の空間認知を失いかねない気がして、前方の一点に意識を集中し、少しずつ歩を進めることにした。

そのように意識を集中できること自体が、今自分のいる場所が夢の世界ではないことを明確に示していると、歩を踏み出しながら彼は再認識した。
しかし彼が歩き出したその途端に、それまで感じていた液体のような色の感触とは明らかに異なる、なにか濁りのような物が周囲から湧き出て、体中に(まと)わりついてきた。

それは体に付着した途端に急激に密度と容積を増し、彼の全身を圧迫するように包み込んでくる。
粘性の高い物質に、全身が浸かっているような感覚だった。
その中を海峰は、藻掻くように手足を動かしながら進んだ。

すると今度は、その濁りから小さな触手のような物が幾つも出てきて、体のあちこちに触れて来た。
そして彼がその触手に意識を向けた瞬間に、それは言葉へと変容した。
その言葉は意味を成していなかったのだが、何故かそれが意味を持つ言葉であることだけは認識することが出来た。

しかしその意味を理解しようとすると、途端に全身がバラバラになって、周囲の世界に拡散して行ってしまうような恐怖を感じて、海峰はひたすら前方の1点に意識を集中し、進み続けた。

それは彼にとって、非常に過酷な作業だった。
ともすれば体を包んだ濁りに、意識を向けてしまいそうになる。
無数に湧き出て来る言葉らしき触手が、引きも切らずに、彼の体に纏わりついて来たからだ。

それでも彼は、ひたすら進んだ。
どれ程の距離を進み、どれ程の時間が経過したのか、彼が認識することすら出来なくなったその時、世界は唐突に開け、気が付くと周囲からは濁りが消えていた。

世界の色調自体は前と変わらず暗かったが、既に体に纏わりついて来るものは何もなかった。
やがて前方に仄かな明るさを見つけた海峰は、その場所へと歩を進める。

そこは周囲の薄暗い空間よりも、ほんの少しだけ明るい色をしていたが、周囲の暗さに圧迫されているように、辛うじて小さな球体の形を保っていた。
そしてその球体の中には父の林紫嶺(リンヅゥリン)がいた。
父はあの土牢の中に垣間見えたのと同じ姿勢で(うずくま)っていた。

海峰がその明かりに近づくと、突然周囲から圧倒的な質量を感じさせるものが押し寄せて来た。
それは無色透明で特定の形すら持っていなかったが、そこに確かに存在していることを、彼ははっきりと知覚することが出来た。

海峰を包み込んできた、その不定形のものから、やはり触手の様なものが無数に出てきて、彼に触れてきたようだ。
彼はそのことをはっきりと感知した。やがてそれは、明確なメッセージへと変質していった。

『お前はこの男の息子なのだな?答えなくとも良い。
今そのことが明確に認識できた。
戸惑っているようだな。お前をここに呼んだのは(おれ)なのだ』
<己>との対話は、そのようにして始まった。
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