【29】魔人の覚醒

文字数 966文字

暗い室内に電話の着信を知らせる振動が響いた。
放置していると留守番電話サービスに切替わり、くぐもった男の声がする。

――きっとあいつだ。あいつの声なんか聞きたくない。
そう思ってその女は両手で耳を塞いだ。

それでも男の声は容赦なく、直接脳髄に染み込むように聞こえて来る。
「いるんだろ?分かってるぞ。今から行くからな。待ってろよ」

――また来る?来ないで。来ないで。来ないでえええええ。
女は頭を抱え、心の中で繰り返し絶叫した。

―――じっとしてたら、またあいつが来る。ここを出なきゃ。早く出なきゃ。
――早くあそこに逃げよう。あそこなら誰にも見られないし、食べる物も蓄えたし。

――そう言えば最近すごくお腹が空く。食べても食べてもお腹が空く。どうしてだろう?
――そんなことより早くここから出ないと。あいつが来る前に出ないと。

取り止めのない思いに翻弄されながら、女は身支度を整えようとした。
しかし灯りを点けるのが怖くて、結局財布だけを持って部屋を出る。
そして誰にも見られないように、そっとマンションを後にした。

――何で私がこんな目に。何で私がこそこそと逃げ回らなきゃならないの?何で?
そう思うと、どす黒い怒りが込み上げて来る。

そしてそれは彼女の中で急激に膨らんでいった。
その怒りの膨張に合わせて、自分の体まで膨らんでいくようだった。

女は人目を避けるようにして、何とか目的の場所にたどり着いた。
そこは最近、テナントが全部いなくなったビルだった。

女は用心深く人目を避けてビルの裏手に回る。
鍵の壊れた裏口から中に入ろうとした時、女は少し離れた場所に立っている人影に気付き、思わず立ち尽くしてしまった。

自分が見知った顔だったからだ。
――あの女だ!何であいつがこんな場所に。何で?

相手は目を凝らして、こちらを見ているようだった。
その時になって慌ててビルの影に身を隠したが、遅かったようだ。
こちらを見ているその女の顔に驚愕の表情が浮かんだからだ。

――まずい。見られた。よりによってあの女に見られた。
――気づかれた?私だと気づかれた?きっとそうだ。きっと気づかれた。
――何とかしないと、何とかしないと、何とかしないと…。

怒りと恐怖が同時に込み上げてきた。
それに合わせて、体が弾けてしまいそうな圧力が、女の体内から急激に押し寄せて来る。そして女の理性の(たが)は消し飛んだ。
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