【40-2】魔人の精神世界(2)
文字数 2,618文字
「きゃああああ」
大きな影は、突然頭を抱えるようにして咆哮し始めた。
「違う。違う。違う。違う。
私じゃない。私じゃない。私じゃないいいい」
そして影は、その場に蹲 る様な姿勢を取ると、頭部を両手で掻き毟る様な動作をしながら、絶叫し続けた。
その声に混乱したように、周囲を飛び交っていた塊が秩序を失い、互いにあちこちで衝突し始める。
その時、もう1つの声が言った。
「もう一度貴方に問います。
貴方は誰なのですか?
何故この世界に来て、何故この人に苦痛を与えるのですか?
貴方は以前、この世界を訪れた者と同様に、私と同じ存在なのですか?
貴方は」
立て続けに問いを放つその声は、海峰が今いる空間全体から聞こえて来るようだった。
「お待ち下さい」
林はその声を途中で制した。
「貴方のご質問には、1つずつお答えしましょう。
まず私は誰かという問いへの答えですが、私は人間です」
「人間?人間がどの様な手段で、この世界に来たというのですか?
貴方は虚偽の回答をしている。
人間は肉体という、有機物で構成された定型の物体として存在しているという情報を私は所有している。
その物体がこの世界に侵入して来ることは、物理的に不可能であるという情報も所有している。
従って、今この様に交信している貴方が人間であるという回答は、虚偽であると私は結論付けます」
「大変失礼しました。
少し補足が必要なようですね。
確かに貴方の仰るように、肉体を持つ私がこの世界に入ることは出来ません。
今こうしてあなたと会話しているのは、私の精神なのです。
私は今、梶本さんの精神世界と、私の精神世界を繋いでいるのです」
「その様な人間が存在するという知識を、私は所有していない」
「それは貴方が知らないだけではないですか?
現に私は今、こうしてこの世界に入り、貴方と対話している」
「なるほど。確かに貴方が今、私と交信していることは事実です。
従って私は、貴方の精神が、現在この世界に存在していることを認定します」
「ありがとうございます。
では、次の問いに回答しましょう。
私がこの世界に来た目的です。
それは、この梶本恭子という女性を、今の状況から開放し、救出するためです。
貴方が先程言われたような、彼女を苦しめることが目的ではない」
「しかしこの人は今、この様に苦しんでいる。
尤も私には、苦しむという人間の精神活動が、正確には理解出来ないのですが」
「あなた方が人間の情動を理解出来ないことは、よく知っています。
そもそもあなた方には、その様な概念がないのですから、当然でしょう」
「貴方は今私に対して、<あなた方>という複数形を用いた。
貴方は私と同様の存在が、複数存在していると考えているのですか?」
「あなたは以前、<神>という共同体に属していたのではありませんか?」
「人間が持つ<神>という概念を、私は情報として所有しています。
しかし貴方は何故、私が<神>という共同体に所属していたと考えるのですか?」
「私はこれまでに二度、貴方と同じ存在と邂逅し、この様に対話をした経験があります。
一度目は今と同じ様な状況の下で、私の父の精神世界に入り、そこにいた存在と対話しました。
二度目は人間の対話機能を通して、人間の言語での対話を行いました。
おそらくその、二度目の対話の対象が、少し前にこの世界を訪れていると思われますが、その対話の中で、私はあなたのような存在が、<神>であることを知ったのです」
「この世界に入って来た存在がいたことを、私は記憶しています。
貴方はあの者と、交信した経験があるのですね?」
「そうです。あなたもこの世界を訪れたあの方と、交信されたのですか?」
「いえ。
私はその時、この梶本恭子という人の精神の深層部で、大部分の活動を停止していました。
この梶本恭子という人の精神世界の内部では、自身の構成要素を維持する以上の活動を行える程、十分な量のエナジーを得ることが出来なかったからです。
あの者が外部からこの世界に入って来た時も、あの者と交信出来る程のエナジーはありませんでした。
従ってあの者は、私がこの世界に存在していることを、認識できなかったようなのです」
「では何故あなたは今、こうして私と対話しているのですか?」
「あの者がこの世界で情報収集を行った際に、私と直接接触したため、私はあの者から強烈な刺激を受け、覚醒しました。
しかしその刺激によって、私の存在に、大きな変化が生じたのです」
「存在の変化ですか。
それは具体的にどのようなものなのですか?」
「私と、この梶本恭子という人の精神とが、急激に融合し始めたのです。
それはかなり以前から始まっていたことではあるのですが、あの者からの刺激によって、私が制御できない程、活発化したのです」
「なぜそのような現象が起こったのでしょう?」
「私があの者から刺激を受けた際に、この梶本恭子という人の精神から、多量のエナジーを摂取したためだと考えられます。
それまで私は、この人の精神から吸収するエナジーを制限していました」
「何故ですか?」
「この人が生成するエナジー中に含まれる、不純物を除去する機能が低下していたためです。
貴方は、人間が生成するエナジーや、その中に含まれる不純物に関する知識を所有していますか?」
「はい。これまでの二度の<神>との対話から、その点については十分承知しております。
ですので、そのままお話を続けて下さって構いません」
林はそう言って、先を促した。
***
永瀬晟 は、彼の眼前に蹲 る梶本恭子 を呆然と見ていたが、やがて彼の中で、恐怖とは別の感情が沸き起こるのを感じた。
――梶本さんは、凶悪な殺人者となってしまったが、それは本当に彼女が望んだことだったのだろうか?
それまでの彼女を知る永瀬には、先程目にした凶暴な姿を、どうしても以前の梶本と重ねることができなかった。
もしかしたら、自分が目にしているのは、全く別の存在で、梶本恭子は別の場所にいるのではないだろうかという、儚い希望が彼の胸をよぎる。
――もし目の前の怪人が、本当に梶本さんだったとしたなら、彼女は何者かに心を乗っ取られてしまったのではないだろうか。
それは、林海峰のいう、<神>ではないのだろうか。
永瀬の中は、目の前の事実の不可解さと、梶本への憐憫の情とで満たされ、今ではあれ程感じていた怒りや恐怖が薄らいでいた。
彼は、この先に待ち受けているであろう結末に不安を感じながらも、それをはっきり見届けようと心に決めるのだった。
大きな影は、突然頭を抱えるようにして咆哮し始めた。
「違う。違う。違う。違う。
私じゃない。私じゃない。私じゃないいいい」
そして影は、その場に
その声に混乱したように、周囲を飛び交っていた塊が秩序を失い、互いにあちこちで衝突し始める。
その時、もう1つの声が言った。
「もう一度貴方に問います。
貴方は誰なのですか?
何故この世界に来て、何故この人に苦痛を与えるのですか?
貴方は以前、この世界を訪れた者と同様に、私と同じ存在なのですか?
貴方は」
立て続けに問いを放つその声は、海峰が今いる空間全体から聞こえて来るようだった。
「お待ち下さい」
林はその声を途中で制した。
「貴方のご質問には、1つずつお答えしましょう。
まず私は誰かという問いへの答えですが、私は人間です」
「人間?人間がどの様な手段で、この世界に来たというのですか?
貴方は虚偽の回答をしている。
人間は肉体という、有機物で構成された定型の物体として存在しているという情報を私は所有している。
その物体がこの世界に侵入して来ることは、物理的に不可能であるという情報も所有している。
従って、今この様に交信している貴方が人間であるという回答は、虚偽であると私は結論付けます」
「大変失礼しました。
少し補足が必要なようですね。
確かに貴方の仰るように、肉体を持つ私がこの世界に入ることは出来ません。
今こうしてあなたと会話しているのは、私の精神なのです。
私は今、梶本さんの精神世界と、私の精神世界を繋いでいるのです」
「その様な人間が存在するという知識を、私は所有していない」
「それは貴方が知らないだけではないですか?
現に私は今、こうしてこの世界に入り、貴方と対話している」
「なるほど。確かに貴方が今、私と交信していることは事実です。
従って私は、貴方の精神が、現在この世界に存在していることを認定します」
「ありがとうございます。
では、次の問いに回答しましょう。
私がこの世界に来た目的です。
それは、この梶本恭子という女性を、今の状況から開放し、救出するためです。
貴方が先程言われたような、彼女を苦しめることが目的ではない」
「しかしこの人は今、この様に苦しんでいる。
尤も私には、苦しむという人間の精神活動が、正確には理解出来ないのですが」
「あなた方が人間の情動を理解出来ないことは、よく知っています。
そもそもあなた方には、その様な概念がないのですから、当然でしょう」
「貴方は今私に対して、<あなた方>という複数形を用いた。
貴方は私と同様の存在が、複数存在していると考えているのですか?」
「あなたは以前、<神>という共同体に属していたのではありませんか?」
「人間が持つ<神>という概念を、私は情報として所有しています。
しかし貴方は何故、私が<神>という共同体に所属していたと考えるのですか?」
「私はこれまでに二度、貴方と同じ存在と邂逅し、この様に対話をした経験があります。
一度目は今と同じ様な状況の下で、私の父の精神世界に入り、そこにいた存在と対話しました。
二度目は人間の対話機能を通して、人間の言語での対話を行いました。
おそらくその、二度目の対話の対象が、少し前にこの世界を訪れていると思われますが、その対話の中で、私はあなたのような存在が、<神>であることを知ったのです」
「この世界に入って来た存在がいたことを、私は記憶しています。
貴方はあの者と、交信した経験があるのですね?」
「そうです。あなたもこの世界を訪れたあの方と、交信されたのですか?」
「いえ。
私はその時、この梶本恭子という人の精神の深層部で、大部分の活動を停止していました。
この梶本恭子という人の精神世界の内部では、自身の構成要素を維持する以上の活動を行える程、十分な量のエナジーを得ることが出来なかったからです。
あの者が外部からこの世界に入って来た時も、あの者と交信出来る程のエナジーはありませんでした。
従ってあの者は、私がこの世界に存在していることを、認識できなかったようなのです」
「では何故あなたは今、こうして私と対話しているのですか?」
「あの者がこの世界で情報収集を行った際に、私と直接接触したため、私はあの者から強烈な刺激を受け、覚醒しました。
しかしその刺激によって、私の存在に、大きな変化が生じたのです」
「存在の変化ですか。
それは具体的にどのようなものなのですか?」
「私と、この梶本恭子という人の精神とが、急激に融合し始めたのです。
それはかなり以前から始まっていたことではあるのですが、あの者からの刺激によって、私が制御できない程、活発化したのです」
「なぜそのような現象が起こったのでしょう?」
「私があの者から刺激を受けた際に、この梶本恭子という人の精神から、多量のエナジーを摂取したためだと考えられます。
それまで私は、この人の精神から吸収するエナジーを制限していました」
「何故ですか?」
「この人が生成するエナジー中に含まれる、不純物を除去する機能が低下していたためです。
貴方は、人間が生成するエナジーや、その中に含まれる不純物に関する知識を所有していますか?」
「はい。これまでの二度の<神>との対話から、その点については十分承知しております。
ですので、そのままお話を続けて下さって構いません」
林はそう言って、先を促した。
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――梶本さんは、凶悪な殺人者となってしまったが、それは本当に彼女が望んだことだったのだろうか?
それまでの彼女を知る永瀬には、先程目にした凶暴な姿を、どうしても以前の梶本と重ねることができなかった。
もしかしたら、自分が目にしているのは、全く別の存在で、梶本恭子は別の場所にいるのではないだろうかという、儚い希望が彼の胸をよぎる。
――もし目の前の怪人が、本当に梶本さんだったとしたなら、彼女は何者かに心を乗っ取られてしまったのではないだろうか。
それは、林海峰のいう、<神>ではないのだろうか。
永瀬の中は、目の前の事実の不可解さと、梶本への憐憫の情とで満たされ、今ではあれ程感じていた怒りや恐怖が薄らいでいた。
彼は、この先に待ち受けているであろう結末に不安を感じながらも、それをはっきり見届けようと心に決めるのだった。