【45-1】太歳(1)

文字数 3,255文字

漸く永瀬晟(ながせあきら)の生活が落ち着きを取り戻したのは、事件から2週間あまり経過した頃だった。
大学の構内には学生たちの姿が戻り、間近に迫った前期試験の準備に余念がない。

――それにしても今年の夏は長いな。
永瀬は噴き出す汗を拭いながらそう思った。

既に9月も終わりに近づいているのに、東京ではまだまだ真夏の暑さを引きずっていたからだ。
この様に異常な気候も、もしかしたら<神>の思し召しなのかも知れないなどと、最近の永瀬は考えたりする。

その日彼は、意を決して林海峰(リンハイファン)を夕食に誘った。
場所は以前に彼と行ったことのある、駅近くのイタリアンの店だった。

その時この店で、永瀬は林から、彼の素性や、彼の父の精神世界にいたという<神>の存在、そしてその<神>を、彼の精神世界の中に捕らえて封印しているという、到底信じ難い話を聞かされたのだった。

そして今では、それを事実として受け止めている自分がいることに、只々唖然としてしまう。
今思えば、あの夜が自分の人生を、それまでの平凡な日常から非日常へと激変させた転換点だったのである。

レストランは空いていて、永瀬たち以外に一組の客がかなり離れた席に座っているだけだった。

コースの料理が出尽くして食後のエスプレッソを一口飲むと、
「では永瀬先生、本日お誘いいただいた訳をお聞かせいただけますか?」
と言って林は、向かい合って座った永瀬に微笑みかけた。

――やはり読まれていたな。
そう思った永瀬は、
「実は事件のことで、どうしても林さんに確認したいことがあったんです」
と、率直に言った。

「どの様なことでしょう?
私にお答え出来ることでしたら、隠し立てなくお話しします。
どうぞお続け下さい」
そう言って林は、姿勢を正して永瀬に先を促した。

「ありがとうございます」
永瀬は礼を言うと、(おもむろ)に話し始めた。

「林さんは、いえ、林さんの教団――九天応元会(きゅうてんおうげんかい)では、どの様にして今回の事件と、英国で起こった事件とを関連づけたのですか?

以前お聞きした、英国の連続殺人犯が、ボルトン先生がお住まいだった区域を担当する、郵便配達人だったというだけでは、いくら何でも話が飛躍し過ぎていると、僕は思うんです」

「やはりお気づきでしたか」
林はそう言って、1つ溜息をついた。

そしてテーブルに身を乗り出すと、
「これからお話しすることは、教団の極秘事項に該当します。
ですので、決して口外しないことをお約束頂けますか?」
と言って、真剣な眼差しを永瀬に向けた。

永瀬は彼の強い口調に少し躊躇したが、どうしても好奇心の方が勝ったので、
「承知しました」
と言って頷く。
それを確かめた林は、椅子に背を戻した。

「今から30年前のことです。当時私はまだ、この世界に生まれていませんでした」
林はそう言って、(おもむろ)に語り始めた。

「その当時英国のロンドンに、リチャード・パルマーという科学者の一家が住んでおられました。
パルマーさんはKCL、キングス・カレッジ・ロンドンで教鞭を取っておられた法医学者であり、医師でした。

パルマー夫妻は、その時から10年程前に九天応元会の教義に触れ、やがて入信を希望するに至りました。
理由は定かではありませんが、キリスト教の教義と、科学者としてのご自身の立ち位置の間に、何か大きな矛盾を感じておられたためではなかったかと推察されています。

しかしその時点では、パルマー夫妻のご希望は叶いませんでした。
何故ならパルマー教授のお父上が、敬虔なキリスト教徒だったからです。

それから10年の歳月が流れ、先生のお父上が亡くなられた後、ご夫妻は正式に教団に入信されました。

しかしそのことは、周囲には秘密にされていたようです。
そしてご夫妻の入信から数か月後に、パルマー家を悲劇が襲いました」

林はそこで一旦言葉を切り、永瀬を見た。
永瀬は固唾を飲んで、彼の話に聞き入っている。

「パルマー夫妻にはトミーという、当時8歳になる男の子がいました。
そのトミーの容姿がある日を境に急激に変化していったそうです。
具体的には、四肢と頸部が、徐々に伸び始めたのです」

「手足と首が伸びた?」
永瀬は一瞬虚を突かれ、林の言葉を繰り返した。
それがどの様な変化だったのか、すぐには思い浮かばなかったからだ。

「そうです。手足と首が通常ではあり得ない長さに伸びたのです。
しかも、僅か数週間の間にです」

「そんなことはあり得ない。
いや、あり得るのか。
梶本君や、英国の殺人犯のように」

「英国の信徒経由で、その情報を得た祖父は、急遽英国に渡り、パルマー家を訪ねました。
そしてそこで、トミー少年の苦しむ姿を実際に目撃したのです。

パルマー教授は祖父に助けを求めましたが、祖父にはトミーを救う手立てがなかった」
「その後、そのトミーという子はどうなったんですか?」

「残念ながら、交通事故で両親と共に亡くなりました。
祖父がパルマー家を訪れた、翌日だったそうです。

これは推測に過ぎませんが、事故の前にトミーは既に亡くなっていたのではないかと思われます。
何故なら祖父が見た彼は、息も絶え絶えの様子だったからです。そして」

「息子の姿を世間に晒すことを恐れ、パルマー夫妻は死を選んだ」
林の言葉を引き取って、永瀬はそう続けた。

「それも今となっては、想像に過ぎませんが」
そう言って林は、やや沈痛な表情を浮かべた。

「そのトミー少年の件が、今回の事件にも関係しているということですか?
起こった事象自体は、確かに似ていますが」
気を取り直して質問する永瀬に、林は静かに答える。

「祖父はパルマー家の事故の直後に帰国し、調査を開始しました」
「調査、ですか?」

「そうです。トミー少年に起こった肉体的変化に、強い関心を抱いたからです。

以前お話ししましたが、教団には過去にトミー少年の様な肉体的変化を起こした人間に関する記録が残されていました。
そしてその記録には、その変化が<神>の関与によるものであると示唆されていました。

そこで当時教団の最高幹部であった祖父は、パルマー家の周辺にいた人々について、密かに調査を始めたのです」
「それは何故ですか?」

「トミー少年の変化が、教団の記録にあるような<神>の関与によるものであるならば、彼の周辺に<神>がいたのではないかと考えたからです。

祖父は、英国在住の教団関係者たちに、パルマー夫妻周辺の人たちの観察と調査を指示しました。
パルマー夫妻は、それ程交友関係の広い方々ではなかったようですが、それにしても気の遠くなるような作業だったようです」

「それはそうでしょうね」
永瀬は、仮に対象が自分のような、交友関係の極端に狭い人間だったとしても、大変な労力だろうなと想像する。

「そして教団関係者による、長年にわたる地道な調査の結果、2年程前にボルトン夫妻の存在が浮かび上がってきました」

「30年間も調査を続けてこられたんですか?!
それにしても、どんな理由でボルトン先生が?」

「明確な証拠があった訳ではないのです。
しかしボルトン夫妻の周囲では、幾つか<神>の存在を示唆する様な事例が報告されていました。

例えばご夫妻と接触した人々の中に、共通する不思議な感覚に襲われたというような事例です。

しかし我々が調査対象としていた方々の中には、パルマー夫妻とボルトン夫妻の共通の関係者が複数おりましたので、中々絞り込めずにいたのです」

「不思議な感覚ですか?」
「そうです。頭の中を何かが、通過していくような感覚だったそうです」

「それは<神>が、その人たちの精神世界に触れて情報をコピーしたという。
教授が、いや、教授の中の<神>が我々にしたような…」

「その可能性が高いと思われます。
そして我が教団では、2年前からボルトンご夫妻と、その周辺の様子を注視して来ました」

「それは監視ということですか?」
「いえ、あくまでも観察です。

我々には彼らに何らかの危害を加えたり、プライバシーを侵害する様な意図はなく、その様な行為は厳に禁止していましたから」

永瀬は、林の反論に少し納得がいかない一方で、彼らが行ってきた遠大な行為に、呆れる思いを禁じ得なかった。
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