【37-2】廃ビル(2)

文字数 2,742文字

ビルの内部はかなり暗かった。
微かに香辛料の匂いが漂っている。

おそらく以前このビルに、インド系料理のレストランが、テナントとして入っていたのだろう。
閉店した今でも、その臭いが消えずに残っているようだ。

林は用意してきたらしい懐中電灯を点けると、ビルの奥に向かって、ゆっくりと音を立てずに進み始めた。
永瀬も渡された懐中電灯を点け、その後ろに従う。

1階は区分けのない、1室だけの間取りのようだ。
廊下の真ん中と向こうの端に、ドアらしきものが見えた。

廊下の壁の上部に明り取りの小さな窓が並んでいたが、隣のビルに遮られているせいか、ビル内に差し込む外の光は、ほんの僅かしかなかった。

林は、廊下の中間にあったドアのノブに手をかけ、そっと引くと、音もなく室内に滑り込んだ。
永瀬も、恐る恐るドアの中を覗き込む。

室内には、ドアと反対側の壁に、少し大きめの窓が切られ、そこから夕暮れの光が差し込んでいる。
中は、家具一つない空き部屋だった。

誰かが身を隠すような場所は、どこにも見当たらない。
室内を見まわし、誰もそこにいないことを確認すると、永瀬は少しホッとした。

――中に誰かが隠れていたら、どうなっていたんだろう?
そう思うと、微かに足が震え出す。

室内を確認し終わった林は、廊下に出ると、永瀬を促して先に進み始めた。
周囲を隣接するビルに囲まれているせいで、極端に採光の悪い建物の廊下を、懐中電灯の光だけを頼りにして、2人は進んでいく。

やがて日が沈むと、建物の中は闇に閉ざされ、この場所が別世界に変貌してしまいそうな気がして、永瀬は物凄く不安になった。
しかしそんな永瀬の不安を意にも介さないように、林はそろそろと廊下の奥まで進み、そこで(おもむろ)に立ち止まった。

永瀬が廊下の向こう側を覗き込むと、右手に小さな踊り場があり、そこから2階に続く階段が伸びている。
階段は途中の踊り場で180度折れ曲がり、さらに上へとつながっているらしい。

林が躊躇なく階段を上り始めたので、永瀬も慌ててそれに従った。
1人でここに、置いて行かれたくなかったのだ。

2階の踊り場に達するまで、特に異変はなかった。
もしかしたら、犯人が隠れているというのは、単なる林の思い込みで、ビルの中は無人なのかも知れない。

永瀬が必至でそう思い込もうとしていると、
「永瀬先生。この先は二手に分かれましょう」
と、林が突然言い出した。

「二手って…」
永瀬は驚いて、思わず口籠る。

「時間が切迫していますから、2人一緒に各階を見て回るのは時間の無駄です。
このビルは4階建てのようですから、2階は永瀬先生が確認して下さい。
その間に私は3階を確認します。

2階に何もなければ3階まで上がってきて下さい。
そこで合流した後、次の階の確認をすることにしましょう」

「林さん、ちょっと待って下さい。
1人ずつだと危険じゃないですか?」
正直言って、この建物の中で1人きりにされるのは、とても恐ろしい。

「大丈夫。
この広さならすぐに確認し終わりますよ。
では、3階でお待ちします」

そう言い捨てるや、林はさっさと3階に上がって行ってしまった。
その後姿を呆然と見送った永瀬は、一瞬林を追って3階に上がろうかと思ったが、すぐにその考えを捨てた。

彼の指示通りにしないと、何か悪いことが起こりそうな気がしたからだ。
永瀬は、林が消えた階段を恨めし気に見上げると、意を決して2階の廊下に歩を進めた。

2階にもやはり電灯は点いておらず、かなり薄暗かった。
1階と異なり、2階部分はいくつかの部屋に区分けされているようだ。
廊下の壁には、大きめの窓が外に向かって一列に切られており、そこから、隣接するビルの、灰色の壁が見えた。

永瀬は廊下をゆっくりと先へ進んだ。
そして最初のドアの手前で、少ししゃがんでドアノブを掴む。

そっとノブを回そうとしたが、回らない。
施錠されているようだ。

ドアの上半分に填め込まれたガラスを見上げた永瀬は、ドアに沿って少しずつ顔を持ち上げると、室内に懐中電灯の明りを向けて覗き込んだ。

中は1階と同様、家具ひとつない空室だった。
誰かが身を隠すスペースもなさそうだ。

ドアから離れた永瀬は、前後を見まわして廊下に誰もいないことを確認すると、さらに奥へと進んだ。
2つ目、3つ目の部屋も施錠されており、ガラスから覗き込むと、室内は先程の部屋と同様に何もない空間だった。

永瀬は慎重に周囲を見回しながら、4つ目のドアの前に至った。
ドアノブを掴もうとした瞬間、生暖かい風が顔に当たる。
びっくりして振り返ると、部屋の前の廊下の窓が少し開いており、そこから外の風が吹き込んでいるらしい。

ほっと胸を撫で下ろし、再度周囲を見回す。
何の異変もないようだ。

この日何度目かの決心をして、永瀬はドアノブを回した。
ノブはゆっくりと回転し、永瀬が力を加えると、ドアは音もなく手前に開いた。

永瀬はゆっくりと体の位置をずらして、ドアの隙間から懐中電灯で中を照らし、少しずつ室内を見回す。
この部屋も他と同様空室だったが、部屋の向こう側の窓際に、ロッカーらしい四角い箱が1つ置かれていた。

何もないことを密かに期待していた永瀬は、それを見つけて落胆する。
――僕は何でこんな所で、こんなことをしているんだろう?
彼はこの場にいない林を、心の中で恨んだ。

漸く自分を奮い立たせると、周囲を見回して異常がないことを確認し、永瀬はゆっくりと室内に滑り込んだ。

そろそろとロッカーに近づく。
学校の掃除用具入れによく使われている、金属製の観音開きのロッカーのようだ。

永瀬はロッカーの横に自分の立ち位置をずらし、扉の片方の取手に手をかけ、ゆっくり下に引き下げると、意を決して一気に扉を開いた。

扉はぎこちない音を立てて開いたが、その後は何も起こらない。
恐る恐る中を覗き見ると、空だった。

ほっとした永瀬は大きく息を吐くと、音を立てないよう、ゆっくりと室外に出た。
外に出た永瀬は再度室内を見渡したが、何も異常はない。
廊下にも異常は感じられない。

ほっとした永瀬は、急ぎ足で来た道を戻ろうとした。
早く林と合流したかったからだ。

その時背後から突然、荒い息使いが聞こえた。
振り向くと、窓の外から廊下に降りようとしている影が視界に飛び込んで来た。

それは大きな生き物の影だったが、逆光に照らされて、はっきりとその姿を見分けることが出来ない。

その生き物は、窓から廊下に降りると2足で立った。
背丈はあまり大きくない。

人間のようにも見えるが、人間にしては体全体が異様に膨らんで大きかった。
そして何よりも異質だったのは、それの肩から、頭部が2つ生えているように見えたことだ。

永瀬が恐怖に駆られて逃げ出そうとした瞬間、それは凄まじい勢いで彼に突進してきた。
跳ね飛ばされた永瀬は、そのまま意識を喪失した。
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