【09-1】急展開(1)

文字数 2,218文字

その日フィリップ・バドコック警部は、スコットランドヤードの執務室にいた。
ブロードウェイにあった前庁舎から、ヴィクトリア・エンバンクメント通りにある現庁舎に移転して3年近くになるが、まだ何となく落ち着かないと言うか、居心地が悪い。

今の部屋の方が広くて小綺麗で日当たりも良いのだが、以前の少し薄暗く狭い部屋が懐かしいと思う時がある。
新しい環境に馴染むのに時間がかかるのは、子供の頃からの習い性だった。

――多分臆病なのだろう。
バドコックはそう、自嘲を含んだ自己分析をしている。
我乍ら面倒な性格だと思わなくもないが、50を超えた今になって、それを矯正しようなどという考えが、彼の頭を掠めることもない。

連続咬殺事件の犯人は未だ逮捕されていないし、捜査には相変わらず明確な方向性が見い出せていなかった。
そして当然のことながら、世間の批判も止むことなく続いている。

特に最近はSNSとかいう、バドコックには全く関心のない場所で、ヤードへの非難の嵐が吹き荒れているらしい。

さらに質の悪いことに、そのSNSというやつは一瞬で世界中に広がっていてくため、ロンドンに一歩も踏み込んだこともない輩までが、調子に乗ってヤード非難に参加しているようだ。

バドコックは、暇な奴らだ――と思うくらいで、そんな世間の騒ぎなど歯牙にもかけていないが、若い部下の中には一々その書き込みを読んで憤慨して者がいるし、何よりヤードの上層部が世間の評判を過剰に気にしている。
その結果、彼に対するプレッシャーが日に日に強まっているのだ。

――全く迷惑な話だ。
バドコックはそう思って、あらゆる雑音を聞き流すことにしている。
そんなことよりも、彼の心には先日のケスラーとの会話が引っかかっているからだ。

――犯人が追い詰められてるだと?この状況でか?
心中で舌打ちしながらそう思ったが、それでもケスラーの主張に、それなりの説得力があることも認めざるを得なかった。
それが彼の心に引っ掛かっているのだ。

考えた末にバドコックは、オフィスを出て最後の事件現場に行くことにした。
何か思いついた訳でもなく、今更部下の見落としがないか確認しようと思った訳でもない。

敢えて言うなら、何となく行ってみようと思っただけだった。
オフィスにいると気が塞ぐというのも理由の一つであったかも知れない。

インフィールド自治区の事件現場付近までクーパーを走らせながら、バドコックは事件に思いを馳せていた。
ネリー・クマールという名の最も新しい犠牲者は、王立音楽大学(RCM)に通う、まだ19歳の女の子だった。

――そういえば、現場に残されていた彼女のヴァイオリンはどうなったのだろう?
――持主と一緒に埋葬されたのだろうか?
バドコックの脳裏にそんな考えがふと浮かんだ。

しかしすぐに自分の感傷じみた気分に気づくと、随分焼きが回ったかもんだな――と、心の中で自分に罵声を投げつける。

パーキングロットに車を停めたバドコックは、事件現場に向かって歩き出した。
ネリーの惨たらしい遺体が横たわっていた路地の中は、ビルの陰になっているせいで、今日の様な晴天の日の昼間でも少し薄暗かった。

思えば事件のあった日は、朝から強い雨が降りしきっていた。
ネリーが身に着けていた赤のワンピースが、雨と彼女自身の血にどす黒く染まっていたのが、妙に鮮明に思い出される。

バドコックは一頻り周囲を見渡した。
別に何かを期待していた訳でもないのだが、やはり不審な点など見つからなかったし、小説に出てくる探偵の様な閃きもなかった。

――俺は何でこんな所まで、のこのこやって来たのだろう?
そう思うと自分の行動の無意味さに腹が立ってきた。

すると何故か急に空腹を覚える。
腕時計を見ると、既にランチタイムをとっくに過ぎていた。
バドコックは昼食を摂るため、路地を出て周囲を見渡した。

すぐに見つかったのはビルの1階にある、それこそロンドン中のどこに行っても見つけられるような、ありふれた大衆パブだった。
夜はビター目当ての客で賑わう店なのだろう。

店に入ると、午後2時になろうという時刻にしては結構混んでいた。
バドコックは空いているカウンター席に腰かけると、コーヒーとサンドウィッチを注文する。

イギリス人は紅茶党が多いが、何故か彼はコーヒー好きだった。
この辺りも、彼のやや捻くれた性格を表しているのかも知れない。

その時カウンターの向こうから、店主らしき男と店員の会話が耳に入って来た。
「おい、チャーリー。新人はまだ帰って来ないのか?」

「まだみたいだな。道に迷ってるんじゃないっすか」
「何言ってる。もう1時間以上になるぞ。電話してみろ」

「面倒くせえな」とぶつぶつ言いながら、チャーリーと呼ばれた店員は自分の携帯電話を操作し始めた。
そしてしばらく電話を耳に当てていたが、「出ませんね」と諦めたように言った。

「呼び出し音は鳴ってんのか?」
「鳴ってんですけどね、すぐ留守電に切り替わるんすよ」

「まったく何やってやがるんだ?
まさか事故ったんじゃねえだろうな」
「ないとは思いますがねえ。
それより、あの客と悶着になってねえかの方が心配ですよ」
「何でだよ?」

「あのトーラスって奴、かなり変ですよ。
俺、10回以上配達してますけど、顔見たの最初の2、3回だけなんすよ。

そのうちドアから手だけ出して金は払うんですが、ピザはドアの前に置いとけって言われて。
声も行くたんびに、だんだん小さくなって。
終いには何にも言わなくなったんですよ」
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