【30-2】悪夢の前兆(2)

文字数 2,290文字

諦めて部屋を出たところで、永瀬はばったりと林に出くわした。
「永瀬先生、少しよろしいですか?」
と言うその顔には、相変わらず温和な表情が浮かんでいる。

永瀬は意味もなくどぎまぎして、
「ああ、林さん。何か?」
と慌てて返した。

「実は島崎さんが、先生にご相談したいことがあるそうなのです」
林がそう言うと、彼の後ろに隠れるようにしていた島崎珠莉(しまざきじゅり)が、おずおずと前に出てきて上目勝ちに永瀬を見た。

彼女は今年研究室に配属された4回生だ。
小柄で童顔なので、見ようによっては中学生に見えなくもない。

「永瀬先生」と、島崎はいつものおどおどした口調で切り出した。
「雪ちゃん、本間さんが部屋に戻ってないようなんです」
「本間さんが?いつから?」

本間雪絵(ほんまゆきえ)は島崎と同じ4回生で、余り目立つとは言えない彼女とは対照的に、かなりの美人で服装も派手な学生だった。
同級生や先輩の男子から、ちょっかいを掛けられているという話もよく聞く。
研究室内での言動も、はきはきと物怖じしないタイプだ。

「一昨日から学校に来ていなかったので、昨日電話してみたんです。
そしたら繋がらなくて。

それで思い切ってマンションに行ってみたんです。
あ、雪ちゃんのマンション、私のマンションから自転車で行ける距離なんで。

そしたら管理人さんが、あ、雪ちゃんのマンションは管理人さんが常駐してるんです。
あの子、いいとこのお嬢さんなんで、結構高い部屋に住んでるんです」

話が回りくどくて要領を得ないので、永瀬は我慢し切れず口を挿みそうになった。
学生の話は極力遮らずに聴けというのが、教員として採用された際に、蔵間の前任の教授から受けた訓告だった。

永瀬は今でもその教えに従っているが、心の中では苛々することもある。
この時がそうだった。

すると林が永瀬の気持ちの推移を察したかのように、
「管理人さんは、何と仰ってたのですか?」
と、さりげなく島崎に先を促した。

まるで心を読まれたような気がして、相変わらず油断ならない男だ――と永瀬は思う。
――それにしても何故この娘は、自分に直接言わずに林を介して相談に来たのだろう?
永瀬は不審に思ったが、兎に角話を聞くことにした。

「雪ちゃんは、先週末からずっと部屋に戻ってないそうなんです。
あの子のマンションて、管理人室のセキュリティシステムで、住人が部屋にいるかどうか分かるようになってるそうなんです。

それで管理人さんの言うには、雪ちゃん、先週の金曜日の夕方にマンションを出たきり、返ってきてないそうなんです」

「帰省してるとか、旅行に行ってるとか、そういうことはないの?」
永瀬が訊くと、島崎はさらにおどおどとした口調で答えた。

「そんなことないです。そういう時は私に言ってくれるはずです。今までもそうでしたし。だから心配で…」
最後は消え入りそうな声だ。

「うーん、それだけだと何とも言えないなあ。
偶々(たまたま)君に言うのを忘れてたのかも知れないしねえ」

「でも、もし何か事件に巻き込まれてたら。
雪ちゃん、美人だし。私、心配で。先生、警察とかに連絡しなくても大丈夫でしょうか?」

「ちょ、ちょっと待ってね。
まず本間君の実家に連絡してみてからにしよう。
島崎さん、彼女の実家の連絡先とか知らないかな?」

「知らないですう」
島崎が困り顔で即答する。

まあ、知らなくても当然だろうな――と永瀬は思った時、
「教務部で、学生の情報を管理されているのではないですか?」
と、またもやタイミングよく林が口を挿んだ。

そう言われればそうなのだが、永瀬は何となく釈然としない。
いわば部外者の林の方が、大学の内情に詳しいのは納得いかないなどと考えていると、「どうしました?」と背後から声が掛かった。

振り返ると蓑谷が立っていた。
「ああ、蓑谷君」
と言って、永瀬は手短に島崎から聞いた話をした。

「じゃあ、これから教務部に行って連絡先を聞いてきます」
話を聞いた蓑谷は、そう言ってさっさと研究室を出て行った。

その後姿を見送っていると、
「蓑谷先生は最近変わられましたね」
と林が呟いた。

永瀬が林を見ると、
「以前は自信なさそうにしてらしたのが、何か急に、自信に満ち溢れている様な感じがしますね。
そう思われませんか?」
と同意を求められた。

横で島崎が、こくこくと肯いている。
「そう言われれば、そうですかね…」

永瀬はそう言って、言葉を濁す。
正直なところ、箕谷にどのような変化があったのか、彼にはよくわからなかったからだ。

「島崎さん。蓑谷先生が戻られたら、ご両親に連絡を取っていただきましょう。
それまで実験を継続されてはいかがですか?」

林がそう言うと島崎は、
「分かりました」と素直に返事して、自分の実験部屋に戻っていく。
すっかり林に懐いているようだ。

何か宗教的な方法を使っているのではないかという疑問が一瞬胸をかすめたが、永瀬はすぐさまそれを否定した。
その様な素振りはこれまで全く認められなかったし、そもそも林のバックグラウンド、九天応元会(きゅうてんおうげんかい)教主という立場を、蔵間以外に漏らしてことはなかったからだ。

それでも島崎だけでなく、他の学生や研究生たちが、林を囲んでランチを食べている光景を見かけることが近頃よくあった。
それに性格に少し癖のある蓑谷や、人付き合いが苦手な梶本まで、林と親しげに話している様子を見かけることもあったのだ。

別にそのこと自体は悪いことではないので、特段気にするようなことでもないのかも知れないが、永瀬は何とも釈然としない気分を抑えられなかった。
そのうち研究室を林に乗っ取られるのではないか――そのような馬鹿げた妄想を明確に否定出来ない程、林海峰という男は彼にとって不気味な存在になっていたからだ。
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