【37-1】廃ビル(1)

文字数 3,045文字

翌日の10時過ぎに、梶本の兄から研究室に連絡があり、今日の午後にこちらの警察署に出向いて、妹の捜索願を届け出るとの連絡を受けた。
彼女の兄は都内に勤める会社員で、午後から会社を休んでこちらに来るようだ。

「この度は恭子のことで、大学の皆様方には大変ご迷惑をおかけしました。
本当に申し訳ございません」
梶本の兄が電話口で、そのように丁重な詫びの言葉を口にするので、永瀬は返って恐縮してしまった程だった。

そして林海峰(リンハイファン)から、永瀬に連絡があったのは、梶本の兄からの電話があってから30分程経った時だった。

林は電話口に出た永瀬に向かって、
「永瀬先生。本日の午後5時以降で構いませんので、お時間を頂けませんか?」
と唐突に言う。

そして永瀬の返事を待たず、
「一緒に行って頂きたい場所があるのです」
と続けた。

永瀬が理由を聞くと、
「それはお会いしてからご説明します」
と、取りつく島もない。

永瀬が返事を躊躇っていると、
「では5時にお迎えに来ますので、よろしくお願いいたします」
と言い、さっさと電話を切ってしまった。

しばらく呆然とした永瀬は、既に自分には行かないという選択肢が残されていないことに気づき、思わず深い溜息をつく。
何かまた、恐ろしいことに巻き込まれそうな、物凄く嫌な予感がしたからだ。

――そもそも、平凡な一大学教員である自分が、何故これ程までに、非日常的な出来事に、巻き込まれなければならないのか!
永瀬はことの理不尽さを思い、だんだん腹が立ってきた。

――林海峰が来るまでは、人間の精神世界に住まう<神>などとは、全く無関係な人生を送っていたはずなのに、今のこの事態は何だというのだ!
彼はそう思って1人憤慨するが、それで事態が好転する訳でもなかった。

***
その日の夕刻、永瀬は林に連れられ、M町にある古いビルの前に立っていた。
時刻は6時に近かったが、まだ夕暮れというには程遠く、強い西日が容赦なく照りつけて来る。

おそらく今いる場所は、箕谷のマンションから徒歩圏内にあると思われたが、ここに連れて来られた理由が、永瀬には全く思い当たらなかった。
大学からこの場所まで来る間、林が終始難しい顔をして無言でいたので、理由を聞くことすら出来なかったのだ。

その表情は、永瀬が話しかけるのを思わず躊躇ってしまう程厳しかった。
彼が来日してからの期間は短いとは言え、この様な表情を見るのは、恐らく今日が初めてだった。
その林が漸く口を開いた。

「永瀬先生、ご足労頂いて大変申し訳ありません。
このビルは、所有者がつい最近破産したため、現在銀行が差押さえの手続を取っている物件です。

所謂(いわゆる)廃ビルです。
破産してからそれ程時間が経っていないためか、電気やガスはまだ止められていませんので、身を隠すには格好の場所です」

「身を隠す?」
「そうです」
肯いた林は、永瀬を見つめた。

「誰が身を隠していると言うんですか?」
永瀬の質問に対してストレートには答えず、林は状況を説明する。

「昨日研究室を辞してから、私は教団員を動員して、この付近での情報収集に当たりました」
「情報収集?」

「そうです。
昨日島崎さんからお聞きした情報が気になったものですから、この付近で噂話を集めさせたのです」
「例の頭が2つある怪人とかいう話ですか?
いくら何でもそれは…」

「信ぴょう性に欠けると仰るのですね。
その通りかも知れません。

しかし私たち九天応元会(きゅうてんおうげんかい)は、ベンジャミン・トーラスという実例を知っています。
そして過去に発生した別の事例も。

ですので私は、その噂を単なるフィクションとして看過すべきではないと考えました。
そして調査の結果、いくつか興味深い噂話を拾うことが出来ました」

「興味深い話ですか…」
永瀬は相変わらず懐疑的だったが、林は気にせず続ける。

「1つは島崎さんが仰っていた、人が怪人によって拉致されたという話です。
かなり尾鰭のついた話でしたが、情報源と思われる人物が特定できました」
「情報源ですか。しかしよく半日足らずの間に、そこまで辿り着けましたね」

「我が教団は、そのような巷間の噂を収集することに長けているのですよ。
様々な階層に、教団員がおりますから」
林はそう言って微笑したが、永瀬は少し引いてしまった。

彼のバックにいる教団の在り様に、少なからず恐怖を覚えたからだ。
しかし林はそんな永瀬の様子には、まるで頓着しない。

「その方は、この付近をテリトリーとする、『がんちゃん』という愛称の、路上生活者の方でした。

その方が数日前に、この付近の工事現場から、1人の男性らしき方が拉致されるのを目撃されたそうなのです。
そしてその犯人と思しき人物が、双頭を持つ怪人だったと主張しているそうなのです」

「路上、ホームレスの方ですか。
しかし、こう言っては何ですが、その方の話は信じられるのでしょうか?」

「路上生活者の話だから、信用できないというのは偏見ですよ、永瀬先生」
そう永瀬を嗜めた後、林は続ける。

「そもそも『がんちゃん』が、そのような話を捏造して、噂を広めても、彼にとっては何一つ得られるものがありません。
そう思われませんか?
私は噂話の元が彼だったからこそ、返って信憑性があると考えました」

林が真顔でそう言うと、永瀬は思わず頷いてしまった。
そう言われて見ると、そうかも知れないなと、変に納得させられたからだ。

「他にもこの付近では、女子高校生の失踪事件が発生しているようなのです。
もちろん関連性の有無は不明ですが。
そして」

「そして…」
永瀬はつい、話に釣り込まれる。

「あと2つの興味深い話を拾うことが出来ました。
1つは、人家や低層マンションの、屋根伝いに移動する人物の噂です。

こちらは残念ながら、情報源をまだ特定できておりませんし、信憑性についても評価できておりません。

そしてもう1つは、このビルの最上階に、夜な夜な微かな灯りが点っているというのです。
それが本日、永瀬先生にご足労頂いた理由なのです」

「はあ?それは、どういうことなのでしょうか?」
林の意外な言葉に、永瀬は思わず訊き返す。

「この廃ビルが、かなりの高確率で、犯人の潜伏場所であると考えられるのです」
「犯人?何の犯人ですか?」
本心ではその先を訊くのが怖かったのだが、永瀬は思わずそう口にしてしまった。

「箕谷先生を殺害し、おそらく本間さんを拉致した犯人です」
永瀬が予想した通りの回答が返ってくる。

そして、
「え、それなら警察に連絡しなくては」
と、永瀬が言いかけるのを制して、林は言った。

「今の段階で警察へ通報することは、お勧め出来ません。
それよりも、これから中に入って我々で状況を確認しましょう」

「我々って。どうして我々が調べなきゃならないんですか?
殺人犯が中にいるのならば、危険じゃないですか。
警察に知らせない理由は、何なんですか?」

永瀬は情けない声で言い募った。
しかし林は動じない。

「仰る通り、今日これから起こるであろうことは、かなりの危険が予測されます。
本来先生を巻き込むべきではないのかも知れませんが、やはりご一緒頂く方がよいと判断しました。
何故ならば、最近研究室で起こっていることの答が、この中にあると思われるからです」

永瀬はその言葉に完全に腰が引けてしまった。
しかし林は、有無を言わさず彼をビルの裏手に引っ張って行く。
裏口には金属製の扉がついていたが、半開きの状態だった。

林は永瀬を見て頷くと、扉を開けてさっさと中に入って行ってしまった。
永瀬は一瞬躊躇したが、仕方なしにその後に続いた。
自分の押しの弱さを、心底嘆きながら。
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