【34-2】神とロンドンの咬殺魔(2)

文字数 2,538文字

謎の教団の、謎の教主の話は続く。
「一方で我々は、収集された情報の中で追加調査が必要と思われるものについては、徹底してフォローアップを行います。
今回のケースがそうでした」
「今回のケース?」

「そうです。ロンドンで発生したこの連続殺人事件については、当初から強い関心を持っていました。
そこで犯人の射殺を機に、可能な限りの追跡調査を行ったのです。

何故か今回の犯人については、容疑者として特定された直後からイギリス政府による、厳しい情報管制が敷かれていました。
我々はイギリス政府をあまり刺激しない程度に調査を行い、その過程でこの写真を入手したのです」

永瀬は聞きながら、段々と怖くなってきた。
話の規模が、大学の研究室の片隅で交わされるレベルを遥かに超えている。

永瀬は思わず室内を見渡した。
誰かに今の話を聞かれていないか、急に心配になったからだ。

しかし林は、
「ご安心下さい。今日この部屋の学生2人は帰省して不在です」
と、またも永瀬の心を読んだように言った。

――もしかしたらこの男は、蔵間の様に自分の精神を覗いているのではないか?
そんな疑問すら湧いて来る。

何しろこの男は精神世界に入って<神>と会話し、自分の精神の中に、捕らえた<神>が存在していると(うそぶ)く男なのである。
しかし林は、永瀬のその様な困惑を意にも介さず、涼しげな表情を保っている。

それが少し癪に障ったので、永瀬は彼に疑問をぶつけた。
「しかしどうして林さんたちは、この事件の犯人にそれ程の関心を持たれたのですか?」

「その理由はこの写真にあります。
先生はこの写真を見てどの様に思われましたか?
銃創の凄惨さを除いて、何かお気づきの点はありますか?」

「そうですね」
少し考えた後、永瀬は自分が感じたことを伝えた。

「顔の下半分が肥大しているように見えます。
また、口が頬まで裂けているように見えますね…」

「先生のおっしゃる通りです。
このベンジャミン・トーラスという男の顔は、口裂部が通常人の倍以上あり、それを支える口裂周辺の筋肉が、異常に発達しています。

実はこの犯人が特定される以前に、我々の教団に興味深い情報がもたらされていました」
「それはどのような?」

「犯行方法、つまり被害者の殺害方法についてです。
それが非常に特殊な方法であったため、ロンドン市警は事件の前後を通じて、それを明らかにしていませんでした。
今もそうです」

「特殊な方法、ですか…」
何となく嫌な予感がして、永瀬はそう呟いた。
もはや、その情報の入手方法について訊くことは断念している。

「そうです。この犯人は都合9名の女性の頸部を噛み、その部分を食い千切ることで、殺害していたのです」

「ちょっ、ちょっと待って下さい、林さん。
それじゃあまるで、映画に出てくるゾンビじゃないですか。
そんな殺し方なんて、とても信じられない」

永瀬は余りの驚きに、咄嗟に大声を出してしまった。
そしてすぐに、拙い――と思い、入口付近を見る。
幸い誰にも聞かれていないようだ。

林はゆっくりと首を横に振ると、
「残念ながら事実なのです」
と断言した。

永瀬はその言葉に絶句して、彼を見た。
同時に、何だか急に胸が悪くなるのを感じた。
しかし林は、彼の思いなど意に介さずに続ける。

「この犯人の特殊な殺害方法についても、犯人の特異な容貌についても、ロンドン市警は一切公表していません。
市民に与えるインパクトを考えれば、賢明な措置と言えるかも知れません。

そして我々は、このトーラスという人物について、独自に調査を行いました。
その結果、見過ごすことの出来ない情報が得られました」
林の真剣な眼差しに、永瀬は無意識に唾をのみ込んだ。

「トーラスという男は、一連の殺人事件が発生する少し前まで、郵便配達人をしていました。
その当時のトーラスについては、地味な男という以外の評判は聞こえてきませんでした。

つまりトーラスの容姿は、今回の犯行に及ぶようになった後、極めて短期間の間に、この様に変貌したということが推測されます。

何故ならば、もし彼が以前からこの特徴的な容貌であったなら、必ずそのことが情報として伝わってくるはずですから。
先生はこの点については、ご納得いただけますね?」

林に念を押されて、永瀬は無言で肯いた。
気がつくと、喉が渇いてカラカラになっていた。

「実は我が教団では、人間がトーラスの様に急激な変貌を遂げた事実を、過去にも情報として把握していました。
それは教団の記録として残されていたのです。

そして我々は、その様な形態変化に、<神>の関与があったのではないかという疑問を持っているのです」
「それはどういう意味でしょうか?私には理解出来ない」

「申し訳ありません、永瀬先生。
そのご質問への回答は、この後順を追ってさせて頂きますので、もう少し話を続けさせて下さい」
永瀬は釈然としない気分だったが、黙って肯いた。

「ありがとうございます。
我々はトーラスについて、もう一点重大な情報を知りました。
それは彼の郵便配達人としての担当区域です。

彼は今回の犯行の少し前から仕事に出て来なくなり、解雇されていたようです。
しかしそれ以前には、インフィールド自治区の郊外の住宅地での配達業務を、2年以上にわたって担当していたのです」

「インフィールド郊外ですって?まさか!」
「そうです。彼の担当区域に、ボルトン先生のご自宅が含まれていたのです」

「しかし、そんな。まさか、そのトーラスという男が変身したのは、<神>の仕業だというのですか。
今、蔵間先生の中にいる…」

「私はその可能性を強く疑っています」
そう断言する林の目には、強い確信が込められている。

「しかし、いくら何でもその考えは飛躍しすぎている。
私には到底納得出来ません」
永瀬は、悲鳴を上げるように言った。

「永瀬先生がそう思われるのも当然です。
そこで提案があります」
永瀬は物凄く嫌な予感がした。

「今から蔵間先生のお部屋で、この話の続きをしたいのですが、お付き合いいただけませんか?永瀬先生」
やはり思った通りだ。

永瀬は出来ることならこの場所から逃げ出したかった。
またあの日の様に、<神>と林の対話に同席させられるのは、本当に怖くて嫌だったからだ。
しかし静かな微笑を浮かべた林に見つめられ、彼は観念せざるを得なかった。
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