【12-2】来訪者

文字数 1,908文字

ボルトン博士夫妻の死因は、どうやら新型コロナウィルス感染に起因する重度の肺炎、つまり病死であったようだ。

司法解剖の結果、死因が明らかになったので、蔵間父娘は日本時間の今夜の便でヒースロー空港を発ち、漸く帰国の途に就くことが出来る模様である。
永瀬はそのことを、蔵間からのメールで、今朝知ったばかりであった。

「警察の事情聴取だけでなく、ボルトン博士夫妻の葬儀にも参列されたようですが、今日の便で帰国されるそうです。
今朝教授からのメールで、その連絡を受けました」

「そうですか。それは何よりです」
永瀬が林を見ると、口元に微笑を浮かべながら2人のやり取りを興味深げに聞いている。

それに気づいた富安は、
「ああ林さん、これは失礼しました。
先程少しお話ししましたが、蔵間先生は現在イギリスに滞在されているのですよ。

まあ今の永瀬先生のお話ですと、明日には帰国されるようですが、いつ大学に出て来られるかどうかは今のところ分かりませんね。

そういうことですので、今日は永瀬先生と一緒に研究室の方に行って下さい。
永瀬先生、お願いしますね」
富安はそう一気に言うと、最後は永瀬に下駄を預けてしまった。
今日呼び出された理由はそれだったようだ。

永瀬は、「承知しました」と言って席を立つと、
「では林さん、取りあえず研究室に行きましょう」
と言って彼を促す。

林も永瀬に続いてを立ち、
「富安先生、どうもありがとうございました」
と言って、富安に向かって丁寧に頭を下げた。

そして、
「永瀬先生、よろしくお願いいたします」
と、永瀬にも丁寧に頭を下げると、彼に従って学部長室を出た。

本部棟にある学部長室から研究棟までは、歩いて10分程の距離がある。
その間永瀬は林と肩を並べて歩いたのだが、実は昔から初対面の人と気軽に会話することが苦手で、この様な状況は彼にとって少々気づまりだった。

しかし無言でいるのも変だと思ったので、
「林さんは中国の、どちらのご出身ですか?」
と、差しさわりのない質問をした。

「私は四川省の成都出身です。永瀬先生は成都をご存じですか?」
にこやかな笑みを浮かべながら林は答える。

「申し訳ありませんが、中国の地理はよく解らなくて…」
「そうですか。日本の皆さんにはあまり馴染みがないのかも知れませんね。
四川省は中国の南西部にある、中国の中でもかなり面積の広い省です。

急峻な山岳地帯に囲まれた芳醇な盆地で、昔から<天府之国>と呼ばれています。
その省都が成都市です。
先生は我が国の<三国志>と言う歴史書をご存じですか?」

「<三国志>ですか。ええ、知っています。
確か三つの国が互いに争ったという…」

「はい、仰る通りです。
その三国の一つである蜀漢の国があったのが現在の四川省で、建国者である劉備が国府と定めたのが成都です。
内陸部ですが、温暖な気候で良いところですよ」

「そうですか」と永瀬が曖昧な返事を返すと、
「永瀬先生は東京のご出身ですか?」
と、逆に聞かれた。

「ああ、僕は福岡市の出身です。ご存じないと思いますが」
「存じ上げております。
九州最大の都市で、別名博多と呼ばれる街ですね。

福岡県の県庁所在地で、政令指定都市の一つですね。
それから、確かソフトバンクホークスという、パシフィックリーグの球団の本拠地でしたね」

「随分お詳しいですね。行かれたことがあるんですか?」
「残念ながら、ございません。
ただ今回来日する前に、日本の主要な都市については、予備知識として習得してまいりました」

林があっさりとそう答えたので、永瀬は驚いて一瞬立ち止まってしまった。
何とも得体の知れない男だと思ったからだ。

「どうされました?」と林に訊かれた永瀬は、「何でもありません」と慌てて答え、再び歩き始めた。

2人して研究室に戻ると、学生たちは昼食に出払っているようで、人気があまりなかった。
入り口から真正面に見えるベランダまで続く長い廊下の左右に、実験室と職員や学生のデスクを兼ねる部屋が並んでおり、奥の右側にある部屋が教授室だ。
入り口を入ってすぐ右の部屋を覗くと、窓際の自席で梶本恭子が昼食を摂っているのが見えた。

「梶本さん」と声を掛けると、彼女は永瀬の方を向いたが、横に立っている林を見て、やや怪訝な表情を浮かべる。

永瀬は林を促して室内に入り、
「食事中にごめん。こちらは、中国から研究生として来られた林さん。
ほら、教授が先月の職員ミーティングで仰ってた」
と、彼女に早口で紹介した。

すかさず林は、
林海峰(リンハイファン)と申します。
梶本恭子先生ですね?よろしくお願いいたします」
と、彼女に向かって丁寧に頭を下げた。

――誰にでも丁寧な人だな。それにしてもこの人は何故、梶本君のフルネームを知っているんだろう?
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