【22-1】九天応元会初代教主林清虚(1)

文字数 2,191文字

「今日来てもらったのはね、林さん。君が18歳の時に体験したという、精神世界の詳しい話を、直接君の口から聞きたいと思ったからなんだよ」
「先生、何故そのことをご存じなんですか?もしや林さんから」

あまりに意外な展開に、永瀬は驚いてそう訊ねる。
何故なら、林から聞いた体験談は彼にとっては常識外れ過ぎて、自身の中でその内容をまだ消化し切れていなかったからだ。

当然のことながら、蔵間を含め他人にはそのことを一切語っていない。
それが突然、蔵間の口から飛び出したので、永瀬はその先の言葉を失ってしまったのだった。

「いえ、私は蔵間先生には一切お話ししていませんよ、永瀬先生。
おそらく蔵間先生は、先生の記憶をお読みになったのではないでしょうか」

永瀬は驚いて林を見た。
――この男は一体何を言っているのだ?

そう思った時、蔵間が満面の笑みを浮かべて言った。
「林さん、君は実に興味深い人だね。そうだろ?未和子」
「ええ、とても」
蔵間父娘は心底嬉しそうな表情を浮かべて、2人して林を見つめた。

その視線に微笑で応えた林は、
「蔵間先生、未和子さん。
先程から頻りに私に接触を試みていらっしゃいますが、残念ながらそれは不可能です。

先生は以前から何度も試みておられますので、既にご承知だと思いますが」
と、またも意味の分からないことを言う。

「何故不可能なのだね?」
という蔵間の問いに対しても、
「それは私が、あなた方のその様な行為を妨げることが出来るからです。

尤もそれは、対象があなた方の様な方々であると、私が事前に承知している場合に限られますが」
と、謎の答えを重ねた。
永瀬はその状況に著しく混乱し、激しく狼狽してしまった。

しかしテーブルに身を乗り出すようにして林を見つめていた蔵間は、
「君は本当に興味深い人間だね。
よかろう。君に直接干渉するのは止めておこう。

話を続けたまえ」
と言ってソファに背を預け、林を促した。

「ありがとうございます」と林は軽く会釈を返す。
未和子も元の姿勢に戻り、口元に微笑を湛えて林を見つめた。

1人会話から取り残された永瀬をよそに、林は自身の不思議な体験について、詳細に蔵間父娘に語った。

2人はその話を聞く間中、終始沈黙していたが、爛々と熱気を帯びたように見開かれたその目は、彼らの関心の高さを如実に物語っていた。
2人のその様子を見た永瀬は、背筋に悪寒が走るの感じたのだった。

林の話を聞き終えた蔵間は、
「非常に興味深い話だ。ところで林君、1つ訊いてもよいかね?」と言った。
「どうぞ」と林が促す。

「君は、君が父上の精神世界の中で邂逅した者を、何故<神>だと思ったのかね?」
「正確には嘗て<神>であった者と仰いましたわ、お父様。
ねえ林さん、そうでしょう?」
蔵間の問いに、横から未和子が口を挿んだ。

「そうです」と林は答え、
「その理由を説明するために、私の遠祖である林清虚(リンチィンシィー)の話をさせていただいてよろしいでしょうか?
蔵間先生、未和子さん」
と続けた。

蔵間は頷き、未和子は「どうぞ」と促す。
2人の目は、相変わらず強い興味の光を帯びていた。
「永瀬先生には以前ご説明しましたが、私は成都大学に在籍すると同時に、九天応元会(きゅうてんおうげんかい)という道教教団の教主の地位におります。
九天応元会は現在から遡ること約1,100年前、中国歴代王朝の中の唐代末期に成立しました。

その初代教主が林清虚、私の遠祖に当たる人物です。
師である汪愈(ウアンユー)から、九天応元会の前身である、地方の道教教団を引き継いだ清虚は、教団名を九天応元会と改め、それまで以上に(タオ)の探求に没頭し始めたそうです」

そこで林が言葉を切って蔵間たちを見るが、2人は無言のままだった。
彼らに口をさし挿む意思がないのを見て取ると、林は話を続ける。

「その過程で清虚は、他教で信仰の対象となっている<神>の存在に強い関心を持つようになりました。
当時唐には、儒仏道の三教以外の多くの宗教が国外からもたらされていました。

ネストリウス派キリスト教である景教、ユダヤ教、ゾロアスター教、マニ教等の宗教です。
それらの宗教では、例外なく<神>が信仰の対象でした。

道教における太上老君や諸神仙は、厳密に言えば他教における<神>の様な信仰の対象ではなく、(タオ)との一体化を目指す上での先駆者と言った方が正確だと、私共は考えています。

尤も、実際は大衆信仰の対象となっているため、非常に紛らわしくはあるのですが」
林はそこで一息つくように、冷めた紅茶を一口飲んだ。

未和子が、
「何か冷たいものをお持ちしましょうか?」
と言うと林は、「お願いします」と言った。
話続けてのどが渇いたのだろう。

永瀬も渇きをおぼえたので、「私もお願いします」と頼んだ。
未和子は立ち上がってティーセットを盆の上のまとめると、応接室を出て言った。

残された3人はいずれも無言だった。
蔵間は静かに目を閉じていたし、林は表情を消している。
永瀬はと言うと、この場の雰囲気に全く順応出来ず、胃を持ち上げられるような緊張感を味わっていた。

しばらくして美和子が、冷たい麦茶の入ったコップを人数分盆に載せて戻ってきた。
林と永瀬は揃って「ありがとうございます」と礼を言い、コップを手にする。

永瀬は自分の喉が緊張でカラカラになっていたことに、その時になって漸く気づいたのだった。
よく冷えた麦茶が、渇いた喉に心地よかった。
コップ半分程の麦茶を飲んだ林は、「では」と一言断ると話を再開した。
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