【18-2】林海峰の回想―神との邂逅(2)

文字数 2,016文字

本土を目前にした洋上で司祭と従者はパオロに殺害され、海へと投げ込まれてしまった。その様な状況下で、<己>の選択肢はパオロとの一時的な共生しか残されていなかった。
何故ならば、<己>は人間の精神が発するエナジーを一情報として感知することでしか、自律的に移動することが出来なかったからだ。

そしてその時<己>が感知できる範囲に、人間は存在していなかった。
もちろんパオロ自身の移動に付随して行くことも可能だったが、彼の精神から放出されるエナジーは、<己>にとって有害な不純物で満ち溢れていたのだ。
そのままでは短時間のうちに、<己>が深刻なダメージを受けることは明瞭だった。

さらにパオロという人間とは、それまでのように外部の世界に存在しながら共生する形態をとることが困難であった。
彼が発するエナジーに含まれる有害物質の流出を、外部からコントロールすることは困難だったからだ。

パオロという盗賊と共生するためには、彼の精神世界の内部から有害物質の発生をコントロールしなければならなかった。

その時<己>は決断を迫られた。
自身を構成する要素、特に記憶が急速に消滅していて、そのままではやがて自身の存在を維持していくことが困難であると予測されたからだった。

最早<己>には、そのまま消滅を待つか、パオロの精神世界に入り、内部から有害物質の発生をコントロールするか、二者択一の道しか残されていなかったのだ。

<己>は人間の精神世界に入ってしまうと、容易にそこから抜け出すことが出来ないことを知識として持っていた。
しかし<己>は、パオロの精神世界の中に入ることを選択せざるを得なかった。

パオロの世界は、<己>がそれまでに経験したことのない場所だった。
そこは、ありとあらゆる種類の有害物質で満ち溢れていた。

その世界に入ると同時に、欲望、嫉妬、憎悪、蔑視、悲しみ、怒り、…――人間がそう定義する有害物質が、吹き荒れる烈風のように<己>に襲いかかり、毒素の様に浸み込み始めたのだった。

漸くにして、周囲に渦巻く有害物質の嵐を制御するに至った時、<己>は既にそれらの有害物質によって大きな影響を受けてしまっていた。

そのことに危機感を覚えた<己>は、周囲のエナジーを制御するだけでなく、パオロの精神世界そのものを制御することを決断した。
そうすることによって有害物質に満ちたその世界を、<己>が存在可能な世界へと改良しようと試みたのだった。

しかしその試みは成功しなかった。
パオロの精神活動のベクトルは、常に負の方向に向かって流れるように出来ていたからだ。

その流れを止め、自身の目指す方向へと転換させる作業を延々と続ける中で、<己>はパオロが絶え間なく発する負のエナジーに侵され、深刻なダメージを負ってしまった。

<己>にとって幸いだったのは、それから数か月後にパオロが捕らえられ、それまで犯してきた数え切れない程の罪によって処刑されたことだった。
その死と同時に、<己>はパオロの世界から解放された。

そうでなければ、パオロの世界の中で消滅するか、あるいは違う存在に変容していたかも知れない。

しかし一旦人間の精神世界に入った<己>にとって、既に外部の世界は生存に適した場所ではなくなっていた。
パオロの精神世界の中で<己>の構造に変質が起こり、外部の世界で生存に必要なエナジーを、以前の様に摂取することは機能的に困難になっていたことが原因だった。

その時から<己>は、外部の世界に在りながら人間と共生するのではなく、人間の精神世界の中に存る者へと、自身の位置づけを変えたのだった。

しかし人間の精神世界の中では、<己>はその人間の精神からの影響を強く受けざるを得なかった。
その結果、精神世界の移動を繰り返すたびに、<己>は本来の形から、大きく変容してしまっていたのだ。

そのことを<己>自身は認識していないようだったが、客観的にその記憶を見た海峰にとっては、パオロの世界に移動する前と、現在の<己>の違いは明確過ぎる程だった。

外部の世界で存在していた頃の<己>は、人間が発する精神エナジーを吸収すると共に、様々な人間の記憶情報を収集し、分析し、取捨選択することによって情報を最適化した上で、自身の構成要素の一部として記録していた。
つまり純粋に情報を収集し、思考し、判断し、記憶する存在だったのだ。

しかし人間一個体の精神世界の中では、その人間固有のバイアスがかかった情報しか取得できないため、<己>が記憶する情報に、いびつな嗜好性が生じたのだ。

そして<己>が次の人間の精神世界に移動した際に、同一事象に対する相反する情報が存在した場合には、片方の情報が上書きされるか、あるいは両方の情報が消去されてしまうのだった。
数100年にわたって、自身の中でその様な情報の錯綜が繰り返されることで、自身の構成要素である記憶情報の混迷と消失を経験した<己>は、大きくその在り方を変容させてしまったのだった。
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