【35-4】神と進化(4)

文字数 1,992文字

永瀬は蔵間の説明を聞いて、背筋が寒くなるのを覚えた。
――トーラスという男は、他人を噛みたいという異常な願望を発露して、連続殺人を行ったというのか。
――その様な殺人の動機があり得るのか?

その時林が、先程永瀬に見せた写真を蔵間の前に置いて言った。
「先生はこの写真の人物を記憶しておられますか?」

「吾は単独では、人間の形状を正確に識別することが出来ない。
人間が視覚によって取得した情報と比較することでしか、その人間の形状を判別することが出来ないからだ。

しかし人間は、個体ごとに、同一の対象から取得する視覚情報が若干異なるのだ。
その原因は個体が持つバイアスに起因すると考えられる。

従って吾が認識する人間の形状は、それら異なる情報を統合し、平均化したものである。
即ち吾の所有する情報が、正確にその実体の形状を表す情報であるどうかを、吾は判断することが出来ない」

「貴方の持っておられる、人間の形状の一般的な統合情報と比較して、この写真の人物の形状はいかがですか?
そこから乖離したものですか?」

「吾の所有する人間の平均的な形状情報を元に判断すると、この写真は一般的な人間とは異なる形状であると認識される」
「具体的にはどの様に異なっているのでしょうか?」

「頭部の下の部分、即ち鼻より下の顔の部分が、人間の平均的なサイズより肥大して、一部が損傷を受けている。
そして口裂が人間の平均値と比較して、2倍以上長く開いていると認識される」

「これはベンジャミン・トーラスの写真なのです。
そして貴方が認識されたように、通常の人間とはかけ離れた顔の形状をしています」

「吾はこの写真に写っている人間が、ベンジャミン・トーラスであるかどうか判断することが出来ない。
何故ならば、この蔵間顕一郎(くらまけんいちろう)という人間の記憶には、トーラスに関する情報が存在しないからだ。

しかし以前にケネス・ボルトンから取得した記憶には、トーラスの顔の形状が通常の人間と異なっているという情報はない。
従って吾は、この人間がベンジャミン・トーラスであると認定することが出来ない」

「貴方の記憶は正しいと思います。
何故ならば、彼は貴方が最後に接触された後に、この様な顔の変化を生じたようなのです」

「汝のその情報を、吾は否定する。
人間が短時間でその様な形状の変化を起こすことはないからだ」

林が口を開こうとすると、<神>蔵間顕一郎は「待て」と制して続けた。
「吾は今漸く、汝の質問の意図を認識した。
汝は吾が、ベンジャミン・トーラスの形状変化に関与したと推測しているのか?」

「そうです。
トーラスは貴方との接触によって、この様な変化を起こしたのではないかと疑っています。

何故ならばこの様に急激な変化は、疾病などの通常の原因で起こり得るものとは思えないからです。
つまり、貴方による、遺伝子レベルの介入があったのではないのかと」

「繰り返すが、吾はその様な介入を行ってはいない」
「そのようですね。
私の推測が間違っていたのかも知れません」
そこで2人の会話は途切れた。

永瀬は突然沈黙した2人に、僅かだが息苦しさを感じた。
「しかし」と、その時沈黙を破って、<神>蔵間顕一郎が口を開いた。
「汝にとって有用かどうかは吾には判断出来ないが、汝の情報を元に、吾は一つの仮定に至った」

「それは何でしょうか?」
林が応じる。

「吾等の所有する記憶情報には、汝ら人間の概念で言う、禁忌に該当するものがある」
「禁忌ですか」

「そうだ。
その記憶は、吾が存在を開始した時には既に所有していたものであるため、吾が所属していた共同体から共有されていたものと推測される」
「その情報とはいかなるものなのでしょう?」

「吾はその情報にアクセスすることが出来ないため、その情報がいかなるものかを、汝に共有することが出来ない」
「アクセス出来ないとは、どういうことでしょう?」

「その情報を所有していることは認識出来るが、その情報を記憶の中から取り出し再生することが出来ないのだ。
その理由を吾は確認することが出来ないが、吾が存在を開始した時点から、その様な情報として、吾の構成要素の中に保存されているのだ。

その情報は、吾の核心部位に保管されているため、吾等の存在に関連する根源的な情報ではないかと推測される。そしてその情報の中に」

蔵間がそこまで言った時に、林がその言葉を引き継いだ。
「生物の遺伝子レベルでの介入に関する情報が含まれていると、お考えなのですね?」

「あくまでも可能性に過ぎない。
何故ならば、その情報がどの様なものなのか、吾は認識することが出来ないからだ」

林は蔵間の言葉を聞いて考え込んだ。
永瀬が彼の横顔を見ると、かなり深刻な表情が浮かんでいる。

やがて林は顔を上げ、
「蔵間先生、どうもありがとうございました。
とても参考になりました」
と、丁寧に頭を下げソファから立ち上がると、唖然と見上げている永瀬を促して、教授室を出た。
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