【04-1】21世紀の切り裂きジャック(1)

文字数 1,933文字

夜半から降り出した雨は一向に止む気配もなく、明け方から返ってその激しさを増してきた。

フィリップ・バドコックは、ロンドン北部インフィールド自治区の東端にある商業地域の一角に、10年以上も乗って廃車間近のクーパーを停めた。
その一帯には第2次大戦後の復興期に建てられた、古びた建物が立ち並んでいる。

車から降りたバドコックはその場に佇むと、恨めしげに空を見上げた。
分厚いグレーの雨雲が彼の頭上を覆っている。

バドコックはその鬱陶しい程の存在感に満ちた雲を見て、うんざりした気分になり、大きく舌打ちした。
この様子では雨はまだまだ止みそうもない。

早朝から招集がかかった上に、この雨である。
バドコックは、これ以上ないという位に不機嫌な顔を作ると、20ヤード程先に見える人だかりに向かって歩き出した。

――この降りでは、傘もコートも大して役に立たないだろうな
そう思って歩き出すと、案の定歩道に跳ね返った雨粒がたちまちズボンの裾を濡らし、折り目を消しながら、どんどん上へと染み込んでくる。
バドコックはまた一つ、大きく舌打ちをした。彼は折り目の無いズボンを穿()くのが、物凄く嫌いだったからだ。

更に靴の中にまで雨水が染み込んで出来て、靴下を濡らし始めた。
そして脚を上げるたびに、靴底に張り付いた靴下が、染み込んだ水と一緒に剥がれて足の裏に纏わり付いてくる。
その感触が、彼の不快感を最大レベルまで増幅させていた。

「最悪の日だな」
そう呟くと、バドコックはもう一度憎々しげに空を睨んだ。

彼はロンドン警視庁、通称スコットランドヤードの警部だ。
彼のチームは現在、このインフィールド自治区と隣のウォルサム・フォレスト自治区を跨ぐ地域で、連続して発生している殺人事件の捜査に当たっていた。

そして今朝もまた、新たな被害者と思われる死体が発見されたとの通報が捜査本部に入ったため、朝食を摂るのもそこそこに自宅を出てきたのだ。

現場は古いビルに挟まれた、日当たりの悪そうな路地の丁度真ん中辺りだった。
路地の中では、そこここで雨具を着込んだ警察官が実況検分を行っている。

カメラのレンズを路面に向けてシャッターを切っている者もいたし、路上にしゃがみこんで遺留物を探しているらしい者もいた。
わずかにせり出した建物の庇の下では、部下の刑事2人が何か話し込んでいる様子が認められた。
皆バドコック同様、早朝から現場に駆り出されて来たのだ。

路地に入ると、4人程の警官の固まりの向こうに、路上に横たわった赤黒いものが見えた。
離れた場所からでは、雨が路面に跳ねて出来る水煙に隠れて、その形が判然としなかったが、近づくに連れ、それははっきりと見えてきた。

バドコックの方に背中を向けて横たわっているのは、やはり女のようだ。
おそらく絶命した時のままの姿勢なのだろう。
元々は明るい赤のワンピースだったようだが、今は雨に濡れそぼって血のように赤黒く見える。

さらに近づいて確認すると、彼女の衣服は実際に相当量の血に染まっており、その原因が大きく抉り取られた頸部の傷跡であることは一目瞭然だった。
そしてその傷跡は、無残にも殺害され、路上に横たえられた彼女が、現在ロンドン北部で進行中の、連続殺人事件の被害者であることを明確に示していた。

この場所で彼女が発見されたのは、今から2時間程前だった。
発見者は路地を偶々通りかかった通行人のようだ。

通報を受けてヤードから急行した警官は、専属の捜査員だけで20名以上という、通常の初動捜査では有り得ない程の多人数だ。
つまりそれだけ多数の捜査員を投入しなければならない程、この事件は深刻だったのだ。

「これで7人目か」
バドコックは忌々し気に呟く。

7月に入ってすぐの暑い日にウォルサム・フォレストの一角で始まったこの一連の殺人事件は、8月も終わりに近い今になっても、一向に収まる気配を見せずに続いている。
捜査員たちは未だに犯人に行きつくことが出来ないどころか、犯人像すら掴めずにいた。

被害者はいずれも20代から40代の女性であったが、その職業や年齢、交友関係その他の背景もまちまちで、今のところ女性であるということ以外の共通点は、彼女たちの間に認められていなかった。

更にはいずれの被害者も殺害時に金品を奪われていなかったし、性的暴行を受けたような形跡も一切確認されていなかった。
その結果、犯行動機は金銭や犯人の性的欲求の解消などといった大衆的なものではなく、殺人自体を目的とする、ある種の快楽殺人だとする憶測が世間を飛び交っている。

勿論ヤードでは、そのような根拠も事実の裏付けもない説を無批判に捜査に取り入れることはなかった。
しかし被害者たちの状況からして、その説が何がしかの説得力を持っていることも事実だったのだ。
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