【28-1】神々の黄昏(1)

文字数 1,782文字

「永瀬先生が仰るように、<神>は人間にとって超常の偉大な存在なのです。
それは人間から生まれる英雄のような次元ではなく、遥か高次元の偉大さなのです。

それ故に人は、人間の中の偉大な英雄ですらも、<神>を尊崇するのです。
そして<神>の偉大さを示す要素の1つが<神>が起こす<奇跡>、あるいは仏教における<霊験>なのです」

「奇跡、ですか」
「そうです、永瀬先生」
そう言って林は永瀬を見た。

永瀬は咄嗟に返す言葉が見つからず、黙ってただ目をパチクリさせるしかなかった。
そして正面に座った蔵間と未和子は、興味深げな表情で2人のやり取りを聞いている。

「永瀬先生。
<神>が数多の奇跡を顕現させてきたことは、聖書を始めとする数々の書物に事実として記されています」

「しかしそれはあくまでも伝説であって、中には実際には起こり得ないような事例もあります。
例えばそうだ。有名なモーゼの逸話で、海を割ったという」

「旧約聖書に記されたエピソードですね。
永瀬先生は、モーゼがファラオの軍からの同胞たちの脱出をほう助するために、<(あし)の海>を割ったという記述が、事実ではないとお考えなのですね?」

「当然です。
勿論潮の干満差の激しい場所で、海中に隠れた地面が干潮時に現れることは事実としてあるのでしょう。

しかしそれを人間が意図的に行うことは出来ない。
もしそれが偶然に起こったことだとしてなら」

「それは<奇跡>ではないと」
林が永瀬の言葉を引き取って言う。
その時、未和子の表情が少し曇ったような気が、永瀬にはした。

「しかし先生。
<葦の海>は実際に割れたのですよ。
<奇跡>によって」

永瀬は林が断言するように言ったので困惑してしまった。
――やはりこの人は宗教者なのだ。宗教的な概念から抜け出せないでいるのだ。

「永瀬先生が困惑されるのは、よく理解出来ますが、私は概念的な話をしているのではないのです。
<事実>についてお話ししています」

「しかし」と反論しようとする彼を制して林は続けた。
「<事実>とは何でしょうか?」
「それは実際に起こった出来事です」

永瀬は林の強い意志の籠った口調に戸惑いながらも、そう断言した。
しかし林の追及は止まない。

「では、実際に起きた出来事はすべて<事実>なのでしょうか。
言い方を変えましょう。

実際に起きた出来事は、すべて<事実>として、人々に認識されているのでしょうか。
例えば深海で日々発生している自然現象は、すべて<事実>として人々に認知されるのでしょうか」

「それは無理です。
地震や海底火山の噴火のような大規模なものであれば兎も角、観測不能な小さな現象は見過ごされるでしょうから。

我々人間がそれをすべて認知することは不可能です。
あっ」

そこまで言って、永瀬は初めて林の意図に気づいた。
その表情に、林は満足げな笑みを浮かべる。

「そうです、永瀬先生。
例え実際に起こった出来事であっても、我々が認知しなければ<事実>として認識されることはない。

一方で、<神>が起こしたもうた事跡を、人々はその脳内、言い換えれば個々の精神世界の中で<事実>として認知し、それを奇跡として認識し記憶したのです。
<葦の海>が割れたことも、キリストが死後に復活したことも、すべてが人々の精神世界の中で実際に起きた出来事、<事実>なのですよ。

そしてそのことは、神の起こしたもうた<奇跡>として、記憶され伝承されたのです」
「つまり貴方の言う<奇跡>は、<神>が人々の精神世界の中で起こしたものであると」

「そうです。そしてそれは<神>にとって極めて容易なことでした。
何故ならば、<神>は人間の精神活動に、直接生理学的な干渉を行うことが出来るからです。

まあ、病の治癒のような事例の中には、直接対象の生理機能を調節することで、実際に治療を行うことが出来た事例もあったと思われますが。
いずれにせよ、世界中で人々に記憶されていた神々の<奇跡>は、すべて<事実>だったのです。

だからこそ人々は、そのような<奇跡>を成すことが出来る<神>を、超常の存在として尊崇したのです。
勿論それだけが理由ではなかったのでしょうが」

そこで一旦言葉を切った林は、蔵間と美和子に向かって言葉を続けた。
「さて前置きが長くなってしまいましたが、ここで蔵間先生に最後の質問をさせて頂こうと思います」
その宣言と共に、林と<神>との間の問答は、唐突に最終局面を迎えた。
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