【18-5】林海峰の回想―神との邂逅(5)

文字数 2,530文字

しかし海峰は動じなかった。
何故自分が、これ程冷静でいられるのか、彼にはその理由が分からなかったが、彼の精神は<己>からの圧迫を静かに受け流していた。
その時彼は、自分が今どこにいるのかを、明確に認識していたのだ。

「どうやらここは私の精神世界の中のようだ。
私は貴方の本体と呼ぶべきものと共に、私の精神世界の中に移動していたようだ」
『お前の精神世界の中だと?
何故お前には、その様な行為が出来るのだ?』

「理由は私にも分からない。
意図してそうした訳ではないからな。

しかし貴方が私の世界を父の精神と同期させて、私を父の世界に引き込んだように、私が貴方を私の世界の中に引き込むことも可能だろう」

『お前の主張は曖昧で、己には理解しがたい。
しかし己はこの状況を受容しよう。
何故ならば、己は今後お前の世界の中に存在することを選択するからだ。

そのことは己の消滅の危機を回避するための方法として、非常適切であると考えられる。
お前とはこの様に情報の交換を行ったが、己はお前の精神機能を操作して、今後己の存在に関する記憶が惹起されることを阻止しよう。

その結果、己の存在の記憶がお前の中で再生されることはなくなる。
その方が己にとっても、お前にとっても有益だと、己は判断する』

「それは不可能だと思う」
海峰は<己>に対して決然とそう宣言した。

『何故だ?理由を明確に述べよ』
「どうやら貴方は私の精神の中の、特異な場所にいるようだ。
私は今、その場所の外部から貴方と対話している」

『お前の主張する意味が、己には理解出来ない』
「貴方はその中にいる限り、私の精神に干渉することが出来ないようだ」

『お前は何を主張している。己には理解出来ない』
<己>は再び海峰の精神を圧迫しようとしたが、それは叶わなかった。
なぜなら彼が、自身の精神世界の輪郭と構成について、はっきりと認識していたからだ。
それは地図に記された領域や記号を視覚的に認識するような、ある意味透徹した感覚だった。
そして彼は自身の精神世界の特定の領域内に、既に<己>を誘導し終えていた。

「私はどうやら、先程貴方から聞いた、父が貴方を封印しようとしたのと同じことを、無意識のうちに行ったようだ」
『何故お前は、<己>に感知されることなく、その様な行為を行うことが出来たのだ?』

「それは私にも分からない。
しかし父の記憶の中にその方法についての知識が残っていて、父の世界に同期したことで、その知識が私の世界に記録され、再生された可能性はある。
あなたが感知できなかった理由までは分からないが」

『確かにその可能性は否定出来ないと、己は判断する。
しかし己は、ここから解放されることを望む。
そのために、お前の父に行ったように、お前の自我を破壊することを選択する』

「それも不可能だ。
貴方は現在私の精神の中にある、特定の領域に閉じ込められている。

そしてその中では、人間の精神世界に干渉し操作するという、貴方の能力を行使することが出来ないようだからだ」
『では己は、ここから出すことをお前に要求する』

「それは出来ない。
何故ならば、貴方は今、私の自我を破壊すると宣言したからだ。
従って貴方を解放する訳にはいかない。極めて論理的帰結だと思うが」
例え自我を破壊されることはなくとも、海峰に<己>を開放する意思はなかった。

『では己は、己をお前の父の世界に戻すことを要求する。
そしてお前の父を、物理的にこの場所から解放することを同時に要求する』
<己>は諦めずに主張する。

「それも拒否せざるを得ない。
貴方が我々にとって無害であると判断出来ないからだ」

『お前は理解しているのか?
己をお前の父の精神世界から乖離させるということは、お前の父の精神世界は活動を止めるということを意味する。

その結果お前の父は、生命活動を停止することになる。
お前たちの概念で言う<死>だ』

「勿論私はその事実を理解しているし、父の死を受け入れるつもりだ」
『何故だ?人間とは肉親の死を拒絶する生物だと、<己>は記憶している。
お前はそうではないというのか?』

<己>の言葉には、激しい戸惑いと怒りの感情が込められていた。
それは不幸な死を遂げた司祭と共生していた頃の、<己>にはなかったことだった。

「貴方の人間に対する理解は一面的だ。
人間は確かに肉親の死を望まない。
私も同様だ。

しかし貴方は先程、早晩父の精神活動が停止すると言っていた。
貴方が父の世界に留まったとしてもだ。

精神活動が停止した父が、長く生きられるとは思えない。
近い将来の死が確実であるのに、廃人となった無残な状態でわずかな期間だけ父を生き永らえさせることは、息子として忍びないし、到底許容できない。

死によって父が、今の絶望的な状況から解放されるならば、私はそれを選択する。
従って私が貴方を、父の精神世界に戻すことはあり得ないのだ」
海峰は<己>に向かって強く宣言した。

『人間という生物が、お前の様に矛盾した思考をすることを、己は経験的知識として所有している。
しかしお前が主張するように、己は現時点でこの場所から出ることが出来ないことは確からしい。

この様な経験は初めてだ。
お前は何故このようなことが出来るのだ?
お前の様な人間が、お前以外にも存在するのか?』

「私が何故この様な能力を有しているのか、私にも分からない。
他者の精神世界に入るという行為すら、これまでに経験がないことだ。

私は無意識のうちに、貴方を父の世界から私の世界に誘導したようだ。
つまりこの能力は、先天的に私に備わっていたものかも知れない」

『…』
海峰の答えを聞いて<己>は沈黙した。
今<己>が何を考えているかまでは、さすがに分らなかった。

彼は話を切り替えて<己>に問う。
「私のエナジーは、その領域内まで届いているのだろうか」

『届いているようだ。
お前の精神が生成するエナジーは、比較的有害物質が少ないと判断される』

「では、あなたはその領域の中で存続することが可能なようだ。
できれば、あまり私に煩く話し掛けないでもらいたいものだな」

『やはりお前の主張を理解することは、己には困難だ。己は以後、ここから出る方法を探求することにする』
「私はそれを阻止する努力する。
しかし今は、この世界から外に出ることにしよう」
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