【35-1】神と進化(1)
文字数 2,857文字
林が教授室のドアをノックすると、中から「どうぞ」という声がした。
「蔵間先生。本日は、前回の続きのお話をさせて頂きたいのですが」
林は室内に入ると、いきなりそう切り出す。
いつになく急いでいる様子だ。
蔵間は林を一瞥すると、
「前回の続きとは、吾等と生物の進化についての話ということか?」
と訊く。
既に<神>モードに切り替わっているようだ。
気のせいだとは思うが、室内の空気の密度が増して重みが加わったように感じ、永瀬は早くも息苦しさを覚えた。
林が「そうです」と応えると、蔵間は無言でソファを指して2人に着席を促した。
勧められるままにソファに座るや否や、林はいきなり本題に入る。
「単刀直入に申し上げますが、本日はあなた方<神>と、この星の生物の進化との関わりについての、我が教団の推論についてご説明したいと思います。
その上で、この前のように幾つかご質問させて頂きますが、よろしいでしょうか?」
「それは構わぬが、彼の者、未和子が残念がると推察される。
何故ならば、未和子は汝の話に非常に興味を持っていたからだ」
「申し訳ありませんが、少し事情があり確認を急いでおります。
未和子さんには、先生から情報共有をお願いいたします」
林の言葉に蔵間は、
「汝の提案を了承する」と肯いた。
「ありがとうございます。さて、以前永瀬先生にはお話ししましたが、成都大学での私の専攻は遺伝子工学です。
私がこの専攻分野を選んだのは、もちろん学問的な興味もありましたが、主たる目的は<神>と生物の進化との関連について研究するためです。
それは教団の方針というよりは、私個人の興味の部分が大きかったのですが」
「<神>と進化との関係ですか?」
「そうです、永瀬先生。そのお話をさせていただく前に、蔵間先生に1つ質問があるのですが、よろしいですか?」
「許可する」
「貴方は以前、人間の神経を介した情報伝達システムを、随意に発動することが出来ると仰いました。
それは生理的レベルで人間の生命活動に介入していると理解してよろしいでしょうか?」
「汝の理解は正しい」
「では、生化学的レベルの介入についてはいかがでしょう?
例えば、遺伝子の操作のような介入です」
「吾等は、そのような介入は行わない」
蔵間は即座に否定した。
「それは、遺伝子操作を行うこと自体、あなた方の機能として不可能ということでしょうか?
あるいは操作すること自体は可能でも、何らかの理由でそれを行わないという意味でしょうか?」
林の問いに、蔵間は少しの間考え込む仕草をしたが、やがて口を開いた。
「汝のその質問に回答することは困難である。
何故ならば、吾等が汝の言う、生化学的レベルの操作を行えるかどうか、吾はそれを判断出来る情報を所有していないからだ」
「承知しました。
では、これからお話しする私の仮説については、あなた方が生化学的レベルの介入を行うことが出来るかどうかという点を一旦おいた上で、お聞き下さい」
林は、蔵間と永瀬を交互に見て、了解を求めた。
2人は同時に肯く。
「さて、生物の進化という言葉には2つの大きなカテゴリーが存在します。
1つは種の中で発生する形質の変化、所謂 小進化です。
同じ種であっても、生息する地域によって異なる色の個体群が存在することが代表的な例です。
もう1つは、大進化と呼ばれるカテゴリーです。
これは種の分化による新たな種の誕生や、より高次の、種の分類群の起源と絶滅のプロセスです。
そして私が、<神>との関連で強い関心を持っているのは、後者の大進化の方です」
蔵間も永瀬も無言で聞き入っている。
「では種の分化は、何をトリガーにして起こるのでしょうか?」
「突然変異、ですね」
と、永瀬が林の問いを引き取って言った。
「そうです。
種の分化のトリガーは、種の中の個体に発生する突然変異とされています。
それについて、今では疑問の余地はないでしょう。
しかし我々は、ここで1つの疑問を抱くことになります。
果たして自然現象として偶発的に発生する突然変異だけで、種の分化が起こり得るのか。
何故ならば、単一の固体に発生した遺伝子の変異は、それが生殖細胞において発生しなければ、次世代へと継承されないからです。
また生殖の対象が変異を起こしていない場合は、やがて劣勢遺伝子として、種の中で埋没していくとされています。
即ち種の分化は、複数の固体に、同時に共通する形態変化をもたらすような、遺伝子の変異が発生しない限り、起こり得ないということです。
その様な同時多発的変異が、果たして自然発生的に生じるのか」
「しかしその点は、ダーウィンを初めとする、進化論者によって説明されていたのではないですか?」
永瀬が林に反論する。
「自然選択説ですね?
仰る通りです。
ダーウィンの主張は、選択圧と呼ばれる自然環境の力が種に加わった場合、その種の中で、その選択圧に対して対応力のある変異を遂げたもの、つまり生存力と繁殖力に長けた変異個体が種内部での生存競争に打ち勝ち、新たな種の起源となるという説です。
現在では、ダーウィンの説を加えた総合説と呼ばれる主張が、研究者の間で最も支持を得ている模様です。
その説が、科学的に説得力を持っているのは確かでしょう。
しかし私は、環境要因以外の要因で、種の分化を説明出来ないかと考えました」
「それが<神>による進化への介入ということですか?」
「そうです、永瀬先生」
「何故そう考えたのですか?」
「理由は2つあります。
1つは生物の進化についての議論が、近代に始まったものではなく、古くから世界各地で行われていたことです。
遡 れば、古代ギリシャの哲学者アナクシマンドロスは、生命は海で生まれ陸上に移動したことを論じたとされています。
我が道教においても、始祖の1人とされる荘周以来、生物を不変の存在ではなく、異なる環境の中で、異なる特性を有するもの、つまり環境に応じて変化するものと捉えてきました。
イスラム世界では、生物の進化について推測した書物が9世紀に記され、以来哲学者の間で生物の進化思想についての議論が続けられています。
では過去の哲学者たちは、何によって、生物の進化の可能性に思い至ったのでしょうか。
アナクシマンドロスは何故、生物が海から地上に来たという事実を知っていたのでしょうか。
私はそこに、<神>からの啓示があったのではないかと推測しました」
そう主張する林の目には、ある種の狂気の様なものが宿っている気がした。
永瀬は、彼の主張に反論しようとしたが、その眼を見ると、言葉を発することが出来なかった。
一方で2人の前に座った蔵間は、興味深い表情を浮かべて、林の説明に耳を傾けている。
その姿に永瀬は、蔵間の内にいる<神>ではなく、まるで蔵間本人がこの話を聞いているような錯覚を覚えた。
――やはりここは、蔵間と林が形成する異世界ではないのか?
永瀬は一瞬そう思い、身震いした。
このままでは、この異質な世界に飲みこまれそうな気がして、背中に強い悪寒が走るのを感じたからだ。
そして異世界の住人の1人たる、九天応元会 教主の言葉は続く。
「蔵間先生。本日は、前回の続きのお話をさせて頂きたいのですが」
林は室内に入ると、いきなりそう切り出す。
いつになく急いでいる様子だ。
蔵間は林を一瞥すると、
「前回の続きとは、吾等と生物の進化についての話ということか?」
と訊く。
既に<神>モードに切り替わっているようだ。
気のせいだとは思うが、室内の空気の密度が増して重みが加わったように感じ、永瀬は早くも息苦しさを覚えた。
林が「そうです」と応えると、蔵間は無言でソファを指して2人に着席を促した。
勧められるままにソファに座るや否や、林はいきなり本題に入る。
「単刀直入に申し上げますが、本日はあなた方<神>と、この星の生物の進化との関わりについての、我が教団の推論についてご説明したいと思います。
その上で、この前のように幾つかご質問させて頂きますが、よろしいでしょうか?」
「それは構わぬが、彼の者、未和子が残念がると推察される。
何故ならば、未和子は汝の話に非常に興味を持っていたからだ」
「申し訳ありませんが、少し事情があり確認を急いでおります。
未和子さんには、先生から情報共有をお願いいたします」
林の言葉に蔵間は、
「汝の提案を了承する」と肯いた。
「ありがとうございます。さて、以前永瀬先生にはお話ししましたが、成都大学での私の専攻は遺伝子工学です。
私がこの専攻分野を選んだのは、もちろん学問的な興味もありましたが、主たる目的は<神>と生物の進化との関連について研究するためです。
それは教団の方針というよりは、私個人の興味の部分が大きかったのですが」
「<神>と進化との関係ですか?」
「そうです、永瀬先生。そのお話をさせていただく前に、蔵間先生に1つ質問があるのですが、よろしいですか?」
「許可する」
「貴方は以前、人間の神経を介した情報伝達システムを、随意に発動することが出来ると仰いました。
それは生理的レベルで人間の生命活動に介入していると理解してよろしいでしょうか?」
「汝の理解は正しい」
「では、生化学的レベルの介入についてはいかがでしょう?
例えば、遺伝子の操作のような介入です」
「吾等は、そのような介入は行わない」
蔵間は即座に否定した。
「それは、遺伝子操作を行うこと自体、あなた方の機能として不可能ということでしょうか?
あるいは操作すること自体は可能でも、何らかの理由でそれを行わないという意味でしょうか?」
林の問いに、蔵間は少しの間考え込む仕草をしたが、やがて口を開いた。
「汝のその質問に回答することは困難である。
何故ならば、吾等が汝の言う、生化学的レベルの操作を行えるかどうか、吾はそれを判断出来る情報を所有していないからだ」
「承知しました。
では、これからお話しする私の仮説については、あなた方が生化学的レベルの介入を行うことが出来るかどうかという点を一旦おいた上で、お聞き下さい」
林は、蔵間と永瀬を交互に見て、了解を求めた。
2人は同時に肯く。
「さて、生物の進化という言葉には2つの大きなカテゴリーが存在します。
1つは種の中で発生する形質の変化、
同じ種であっても、生息する地域によって異なる色の個体群が存在することが代表的な例です。
もう1つは、大進化と呼ばれるカテゴリーです。
これは種の分化による新たな種の誕生や、より高次の、種の分類群の起源と絶滅のプロセスです。
そして私が、<神>との関連で強い関心を持っているのは、後者の大進化の方です」
蔵間も永瀬も無言で聞き入っている。
「では種の分化は、何をトリガーにして起こるのでしょうか?」
「突然変異、ですね」
と、永瀬が林の問いを引き取って言った。
「そうです。
種の分化のトリガーは、種の中の個体に発生する突然変異とされています。
それについて、今では疑問の余地はないでしょう。
しかし我々は、ここで1つの疑問を抱くことになります。
果たして自然現象として偶発的に発生する突然変異だけで、種の分化が起こり得るのか。
何故ならば、単一の固体に発生した遺伝子の変異は、それが生殖細胞において発生しなければ、次世代へと継承されないからです。
また生殖の対象が変異を起こしていない場合は、やがて劣勢遺伝子として、種の中で埋没していくとされています。
即ち種の分化は、複数の固体に、同時に共通する形態変化をもたらすような、遺伝子の変異が発生しない限り、起こり得ないということです。
その様な同時多発的変異が、果たして自然発生的に生じるのか」
「しかしその点は、ダーウィンを初めとする、進化論者によって説明されていたのではないですか?」
永瀬が林に反論する。
「自然選択説ですね?
仰る通りです。
ダーウィンの主張は、選択圧と呼ばれる自然環境の力が種に加わった場合、その種の中で、その選択圧に対して対応力のある変異を遂げたもの、つまり生存力と繁殖力に長けた変異個体が種内部での生存競争に打ち勝ち、新たな種の起源となるという説です。
現在では、ダーウィンの説を加えた総合説と呼ばれる主張が、研究者の間で最も支持を得ている模様です。
その説が、科学的に説得力を持っているのは確かでしょう。
しかし私は、環境要因以外の要因で、種の分化を説明出来ないかと考えました」
「それが<神>による進化への介入ということですか?」
「そうです、永瀬先生」
「何故そう考えたのですか?」
「理由は2つあります。
1つは生物の進化についての議論が、近代に始まったものではなく、古くから世界各地で行われていたことです。
我が道教においても、始祖の1人とされる荘周以来、生物を不変の存在ではなく、異なる環境の中で、異なる特性を有するもの、つまり環境に応じて変化するものと捉えてきました。
イスラム世界では、生物の進化について推測した書物が9世紀に記され、以来哲学者の間で生物の進化思想についての議論が続けられています。
では過去の哲学者たちは、何によって、生物の進化の可能性に思い至ったのでしょうか。
アナクシマンドロスは何故、生物が海から地上に来たという事実を知っていたのでしょうか。
私はそこに、<神>からの啓示があったのではないかと推測しました」
そう主張する林の目には、ある種の狂気の様なものが宿っている気がした。
永瀬は、彼の主張に反論しようとしたが、その眼を見ると、言葉を発することが出来なかった。
一方で2人の前に座った蔵間は、興味深い表情を浮かべて、林の説明に耳を傾けている。
その姿に永瀬は、蔵間の内にいる<神>ではなく、まるで蔵間本人がこの話を聞いているような錯覚を覚えた。
――やはりここは、蔵間と林が形成する異世界ではないのか?
永瀬は一瞬そう思い、身震いした。
このままでは、この異質な世界に飲みこまれそうな気がして、背中に強い悪寒が走るのを感じたからだ。
そして異世界の住人の1人たる、