【14】蔵間顕一郎の帰還

文字数 1,566文字

翌日。
約3週間ぶりに蔵間顕一郎(くらまけんいちろう)教授が研究室に出勤した。
驚いたことに蔵間は、娘の未和子(みわこ)を伴っていた。

永瀬はやや面食らったが、教授室に2人が入った少し後で、林海峰(リンハイファン)を誘って教授室のドアをノックする。
室内から、「どうぞ」という蔵間の重厚な声がした。

ドアを開けて中に入ると、執務用に特注したアームチェアに蔵間がゆったりとした姿勢で座っていた。
応接セットの、濃いワインレッドのソファには未和子が腰掛けている。

「教授、失礼します」
永瀬が挨拶すると、
「永瀬君、留守中はありがとう。そちらは?」
と言いながら、蔵間は永瀬たちに未和子の向かい側の席を勧めた。

永瀬は、
「こちらは研究生の林海峰さんです」
と紹介しながら、林を促して席に着いた。

「林さん?ああ、成都大学から預かることになった。しかし来日予定は少し先ではなかったかな?」
未和子の隣に席を移した蔵間が訊く。

「蔵間先生、お目に掛かれて光栄です。林海峰(リンハイファン)です。実は大変申し訳なかったのですが、こちらの都合で来日予定を少し早めて頂きました」
すかさず林が流暢な日本語で、如才なく説明した。

蔵間は「そうですか」と言っただけで、林の言う事情についてはあまり気にしていない風だった。

「ところで先生」と、永瀬は話題を切り替える。
「ロンドンでは大変でしたね」

「ああ、ボルトン先生は残念だったね。奥さんも。先生にはお世話になったんだが」
「COVID19だったそうですね?」

「その様だね。郊外でのご夫婦2人暮らしだったのがいけなかったようだ。
高齢で病状の進行が速かったんだろうね。

その上周囲に、お2人の世話をする人がいなかった。
それで病院に行くことが出来なかったようだ」

「お子さんはいらっしゃらないんですよね?」
「うん。お二方とも係累が絶えていて、結局友人や教え子たちで葬儀を行ったんだよ」

「そうですか」
そこで会話は途切れたのだが、蔵間とのやり取りの間中前の席に座っていた未和子が、興味津々という表情を浮かべながら、永瀬と林を交互に見ているのが非常に気になった。

そもそも何故、蔵間は未和子を伴って来たのだろうと永瀬が考えていると、
「今日は学士入学の手続について確認しに参りましたの、永瀬先生」
と、まるで彼の考えを読んだかの様に未和子が言う。

「娘が以前から、本学で再度学びたいと言っていてね」
蔵間も横から補足する。
「そうですか」と永瀬は曖昧に答えたが、自分の考えを読まれたようで、少なからず気味が悪かった。

隣席の林の様子を(うかが)うと、穏やかな表情を浮かべつつも、かなり強い視線で蔵間父娘を見つめている。
一瞬気まずい沈黙が、4人の間を過った。

「さて、私はこれから留守中に溜まった仕事を処理するつもりだが。
永瀬君、他に用はあるかね?」

「ああ、すみません。
ご不在中特に報告すべきことは、林さんが来日されたことくらいですので。
これで失礼します」
そう言うと永瀬は席を立った。

隣の林も立ち上がりながら、
「蔵間先生。未和子さん。今後ともよろしくお願いいたします」
と言って、丁寧に頭を下げた。

教授室を後にしながら永瀬は、何となく釈然としない気分だった。
蔵間父娘から何か以前とは違う雰囲気を感じ、強い違和感を覚えたからだ。

すると、
「蔵間先生は渡英される前と、少し雰囲気がお変わりになったのではありませんか?」
と、後から出てき林がそう言ったので、永瀬は驚いて振り向いた。

「そう言われると確かにそうなんですが。林さんは何故そのことに?」
「富安先生からお聞きしていた印象と違っていたものですから」

林はそう言ったが、
――そもそも何故、渡英前後で違いが生じたと、この男は考えたのだろう?
と永瀬は不審に思う。

しかし彼の表情からは、真意を読み取ることが出来ない。
穏やかな微笑を浮かべている目の前の男から、何か得体の知れないものを感じ、永瀬は背中に寒気を覚えた。
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