【43-1】結末(1)

文字数 1,766文字

永瀬晟(ながせあきら)梶本恭子(かじもときょうこ)の様子を見守り続けていた。

鏡を見た直後の彼女は、頭を抱え、全身を身もだえするように震わせながら、
「違う、違う」
と何度も怒号し続けていた。

しかし突然、
「あんた誰よ?」
と言った後に静止すると、それからは呆然と立ち尽くしていた。

やがて梶本はその場に(うずくま)ってしまった。
その背中を見ると、かすかに震えているのが分かった。
そして理由は分からなかったが、彼女の怒りは沈静化し始めているようだった。

その一連の動きを、じっと見守っていた永瀬の中では、最初に感じていた恐怖は既に鎮まり、今では、変わり果てた姿になってしまった、-梶本に対する、強い憐憫の情が溢れている。

「永瀬先生、終わりました」
その時突然、林海峰の声が、永瀬の耳に届いた。
振り返るとそこに、疲れ切った様子の彼が立っている。

林は何とも表現のしようのない、切なげな、そして怒りを含んだような表情をしていた。
体には永瀬が彼に対して、これまでに感じたことのない、厳しい雰囲気を帯びている。

「林さん」
永瀬が声を掛けようとするのを手で制して、林は梶本に話しかけた。

「梶本さん、よろしいですか?
これから、あなたの今後について、話し合わなければなりません」

永瀬が振り向いて、梶本が蹲っていた場所を見ると、彼女はいつの間にか、奥の光の当たらない場所に移動している。

林の呼びかけに、梶本はゆっくりと顔を上げたようだった。
しかしその表情は、闇に溶けて見ることが出来ない。

「私の、これから、ですか?」
途切れ途切れに、そう問いかける彼女の声は、落ち着きを取り戻しているようだった。

それ永瀬のよく知る、少し遠慮がちな梶本の声音だった。
どうやら彼女の精神状態は、元に戻ったようだ。

――林は彼女に、一体何をしたのだろう?
永瀬がそう考える(かたわ)らで、林が梶本に呼び掛ける。

「そうです梶本さん。まず、あなたの希望を聞かせて下さい。」
「私は」
梶本はそう言って少し口ごもる。

「私は、警察に行かなければならないのでしょうか?
そうですよね。
こんなに人を殺してしまったんですから。
でも」

「でも?」
言い淀む梶本を、林が促す。

「私は、警察に行きたくない。
罰を受けるのが嫌なんじゃないんです。

この姿を、こんな姿を、他の人に見られたくないんです。
絶対に見られたくないんです。

もし見られたら、また自分を見失ってしまうかも知れない。
それが怖くて、怖くてたまらないんです」

切々と語るその言葉に続いて、すすり泣く声が聞こえてくる。
永瀬はその声を聞いて、梶本に対する憐憫で、胸が締め付けられる思いだった。

――何が梶本君をあんな姿にして、これ程までに苦しめているんだろう?
永瀬の脳裏には、研究室に配属された学生時代から、これまでの梶本恭子。
地味で大人しいが、真面目で素直な、少し小柄な女性の姿しか浮かんで来なかった。

いつの間にか永瀬の双眸に、涙が溢れてきた。
――君はどうしてしまったんだ。

闇の中に、梶本のすすり泣く声だけが響く。
暫くの間、沈黙を守っていた林が、やがて静かに口を開いた。

「梶本さん。
貴方にはお伝えしていませんでしたが、私は九天応元会(きゅうてんおうげんかい)という道教教団の教主の座にいます」
「教主?」

「そうです。
そして我が教団は、日本にも拠点を持っています。
その拠点で、貴方を人知れず匿うことは可能ですよ」

「何を言ってるんです!林さん」
林の意外な提案に、永瀬は思わず声を上げる。

「そんなことが許されるはずがない。
それでは犯人隠匿(いんとく)だ。

もちろん僕も彼女を何とか助けてあげたい。
しかし、それでも法治国家である限り…」

永瀬はその先を続けることが出来なかった。
自分が、本心と著しく乖離(かいり)した、建前を述べているに過ぎないことに、強い自己嫌悪を感じたからだ。

「ほんの少しの期間だけです」
永瀬の本心を察したのか、林は静かに言った。

それに続いて梶本が、消え入りそうな声で呟く。
「永瀬先生。私はあと少ししか生きられないんです」
それを聞いた永瀬は、次の言葉を失ってしまった。

「梶本さん、聞いていらしたのですね?」
「はい、私の頭の中のことですから。

でもその前から、自分の体の異変については、何となく気づいていました。
時々胸が、締め付けられるように苦しくなって」

2人の間で、永瀬には謎の会話が続けられる。

堪らず永瀬が目で問うと、
「後で詳しくご説明します」
と言って、林は彼を制した。
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