【42-1】魂の帰還(1)
文字数 2,425文字
それからどれ程の時間が経過しただろうか。
梶本恭子の精神世界の中を飛び交っていた、大小の怒りの塊は徐々に静止していった。
吹き荒れていた怒りの嵐は、<神>の干渉によって一時的に収まったようだ。
気がつくと黒い影、梶本恭子の精神の核の傍に、林海峰 は立っていた。
怒りの鎮静に伴って、影の怒号も止んでいたが、それでもまだ弱々しい悲鳴をあげている。
林は影に向かって、「梶本さん」と呼びかけた。
影はその声に反応し、「あんた誰よ?」と問い返す。
「私ですよ。林海峰です」
「林海峰?林海峰?林海峰?
ああ、あんたね。
何であんたがここにいるのよ?」
影の密度が上昇し、林を強く圧迫してくる。
その圧力に耐えながら彼は言った。
「あなたは今、鏡に映った自身の姿を見ましたね?」
「鏡?あれが私だって?
違う、違う、違う、違う、…」
影が再び怒号を発しようとするのを、
「あれは、あなたではないのですか?」
と林は制する。
「そうよ。私じゃないわ。
私はあんな化物じゃない」
「そうですね。
私の知っている梶本恭子という人は、とても温和で心の優しい方でした。
少し真面目過ぎるところはありましたが、模範的な教員であり、社会人でした」
林はそう言って影を宥めた。
「そうよ、私はずっとずっと真面目に生きてきたのよ。
他の人の迷惑にならないように、いつも気を使って。
いつだって社会のルールもきちんと守って。
なのにあいつらは、平気で周りに迷惑をかけて。
私のことを嘲笑して。
陰で私を馬鹿にして。
そして私を、無理矢理犯したのよ。
だからあいつら全員、殺してやったのよ。
あんな奴ら殺されて当然よ。
あんたもそう思うでしょう?」
「あなたの怒りは正当です」
林は決して、影の主張を否定しない。
「しかし、あなたの怒りは大き過ぎたのです。
あなたのその怒りは、あなた自身でも制御できない程、強大なオーラとなって、本来の貴方の姿を、すっぽりと包み込んでしまったのです。
あなたの優しさも、賢明さも、真面目さも、数多の美点まで、丸ごと全て包み隠してしまった。
鏡に映ったその姿は、あなたの本当の姿ではない。
あなたの存在の、ほんの一部でしかない、怒りが具現化しただけのものなのです。
その一部が暴走して、そのように巨大で、禍々しいものたなってしまったのです。
鏡に映ったその姿はすべて、あなたの怒りを体現している。
違いますか?」
「違う。これは私じゃない」
林の言葉に影は抗ったが、その声はやや弱まっていた。
「そうです。
繰り返しますが、それはあなたの本当の姿ではない。
あなたは、本当に運が悪かった。
悪かったとしか言いようがない。
ボルトン夫妻が、コロナウィルスに感染していなければ。
蔵間先生が、英国の学会に招聘されていなければ。
箕谷さんが、あなたに妄念を抱かなければ。
その出来事の、いずれか一つでもなかったなら、あなたは、その怒りのオーラを生み出すことはなかった」
「箕谷!そうよ。
あいつが、あの男が私のことを無理矢理。
そうよ、あいつが悪いのよ。
あいつのせいで私は。
あいつは、私を犯した後で、そのことを永瀬先生にばらされたくなかったら、これからも黙ってあいつの言いなりになれって言ったの。
私は、そんなことを永瀬先生に、絶対に知られたくなかった」
再び影が、怒りで膨張し始める。
しかし林が動じなかった。
それは梶本を必ず元に戻すという、強い意志の表れだった。
「箕谷さんが貴方に対して行ったことは、決して許されることではありません。
ただ私は、彼も蔵間先生、いや蔵間先生の中の<神>に、妄念を刺激されたのではないかと思います。
私の知る限り、箕谷さんは極めて小心で、はっきり言えばあなたに暴行を加えるような度胸のある人物ではなかった」
「<神>ってなによ?
そいつのせいだから、箕谷の奴に罪はないって言うの。
あいつは」
「もちろん箕谷さんが、あなたに対して行った行為は、重大な犯罪です。
それ以前に、人として許される行為ではない。
彼は当然罰せられなければならなかった。
しかし貴方は彼を罰するのに、何故殺害という手段を用いてしまったのですか?」
「何故って。
あいつのせいで私はすごく傷ついた。
だから殺してやったのよ。
頭を捻ってやったのよ。
あいつを殺して何故悪いのよ!
あんたに私の何が分かるのよ!」
「あなたの怒りは正当です。
繰り返しますが、彼があなたに対して犯した罪は、罰せられて然るべきです。
しかし例えそうであっても、あなたは彼を殺害すべきではなかった」
「何で?何で殺しちゃ駄目なのよ?
あんた今、あいつは罰を受けて当然だって言ったじゃない。
あんな奴、殺されても当然よ。
それともあんた、あいつに同情しているの?」
「私が同情を禁じ得ないのは、彼ではありません。
あなたです」
「私?何で?」
「あなたが彼を罰するために、あなたの人生を犠牲にしてしまったからです」
「私の人生…」
「そうです。
あなたは彼を殺しただけでなく、彼を殺すことによって、あなた自身をも殺してしまった。
あなたは彼を罰するために、その様な姿になってしまった。
その姿はあなたの望んだものではなかったのかも知れない。
しかしあなたは最早、後戻りの出来ない場所まで来てしまったのです。
あなたは被害者なのに、自分自身のこれから先の人生を、自ら閉ざしてしまった。
私はそのことが、とても悲しい。
あなたが、そのような道に足を踏み込んでしまったことを、あなたのために嘆くのです」
「これは私じゃない。私じゃないの」
影は弱々しく抗ったが、林の追及は終わらない。
「そうです。
あなたではない。
それはあなたが、図らずも身に纏ってしまった、怒りという名のオーラに他ならない。
あなたはこの先ずっと、その禍々しいオーラを纏って生きていくのですか?」
「嫌だ。そんなのは嫌だ。
嫌だ、嫌だ、嫌だ、…」
「では今ここで、それを脱ぎ捨てましょう」
「どうやって?」
林の言葉に、影の声が戸惑いの色を帯びた。
「初めて私がお会いした時の、あなたを思い出しましょう」
「思い出す。私を…」
梶本恭子の精神世界の中を飛び交っていた、大小の怒りの塊は徐々に静止していった。
吹き荒れていた怒りの嵐は、<神>の干渉によって一時的に収まったようだ。
気がつくと黒い影、梶本恭子の精神の核の傍に、
怒りの鎮静に伴って、影の怒号も止んでいたが、それでもまだ弱々しい悲鳴をあげている。
林は影に向かって、「梶本さん」と呼びかけた。
影はその声に反応し、「あんた誰よ?」と問い返す。
「私ですよ。林海峰です」
「林海峰?林海峰?林海峰?
ああ、あんたね。
何であんたがここにいるのよ?」
影の密度が上昇し、林を強く圧迫してくる。
その圧力に耐えながら彼は言った。
「あなたは今、鏡に映った自身の姿を見ましたね?」
「鏡?あれが私だって?
違う、違う、違う、違う、…」
影が再び怒号を発しようとするのを、
「あれは、あなたではないのですか?」
と林は制する。
「そうよ。私じゃないわ。
私はあんな化物じゃない」
「そうですね。
私の知っている梶本恭子という人は、とても温和で心の優しい方でした。
少し真面目過ぎるところはありましたが、模範的な教員であり、社会人でした」
林はそう言って影を宥めた。
「そうよ、私はずっとずっと真面目に生きてきたのよ。
他の人の迷惑にならないように、いつも気を使って。
いつだって社会のルールもきちんと守って。
なのにあいつらは、平気で周りに迷惑をかけて。
私のことを嘲笑して。
陰で私を馬鹿にして。
そして私を、無理矢理犯したのよ。
だからあいつら全員、殺してやったのよ。
あんな奴ら殺されて当然よ。
あんたもそう思うでしょう?」
「あなたの怒りは正当です」
林は決して、影の主張を否定しない。
「しかし、あなたの怒りは大き過ぎたのです。
あなたのその怒りは、あなた自身でも制御できない程、強大なオーラとなって、本来の貴方の姿を、すっぽりと包み込んでしまったのです。
あなたの優しさも、賢明さも、真面目さも、数多の美点まで、丸ごと全て包み隠してしまった。
鏡に映ったその姿は、あなたの本当の姿ではない。
あなたの存在の、ほんの一部でしかない、怒りが具現化しただけのものなのです。
その一部が暴走して、そのように巨大で、禍々しいものたなってしまったのです。
鏡に映ったその姿はすべて、あなたの怒りを体現している。
違いますか?」
「違う。これは私じゃない」
林の言葉に影は抗ったが、その声はやや弱まっていた。
「そうです。
繰り返しますが、それはあなたの本当の姿ではない。
あなたは、本当に運が悪かった。
悪かったとしか言いようがない。
ボルトン夫妻が、コロナウィルスに感染していなければ。
蔵間先生が、英国の学会に招聘されていなければ。
箕谷さんが、あなたに妄念を抱かなければ。
その出来事の、いずれか一つでもなかったなら、あなたは、その怒りのオーラを生み出すことはなかった」
「箕谷!そうよ。
あいつが、あの男が私のことを無理矢理。
そうよ、あいつが悪いのよ。
あいつのせいで私は。
あいつは、私を犯した後で、そのことを永瀬先生にばらされたくなかったら、これからも黙ってあいつの言いなりになれって言ったの。
私は、そんなことを永瀬先生に、絶対に知られたくなかった」
再び影が、怒りで膨張し始める。
しかし林が動じなかった。
それは梶本を必ず元に戻すという、強い意志の表れだった。
「箕谷さんが貴方に対して行ったことは、決して許されることではありません。
ただ私は、彼も蔵間先生、いや蔵間先生の中の<神>に、妄念を刺激されたのではないかと思います。
私の知る限り、箕谷さんは極めて小心で、はっきり言えばあなたに暴行を加えるような度胸のある人物ではなかった」
「<神>ってなによ?
そいつのせいだから、箕谷の奴に罪はないって言うの。
あいつは」
「もちろん箕谷さんが、あなたに対して行った行為は、重大な犯罪です。
それ以前に、人として許される行為ではない。
彼は当然罰せられなければならなかった。
しかし貴方は彼を罰するのに、何故殺害という手段を用いてしまったのですか?」
「何故って。
あいつのせいで私はすごく傷ついた。
だから殺してやったのよ。
頭を捻ってやったのよ。
あいつを殺して何故悪いのよ!
あんたに私の何が分かるのよ!」
「あなたの怒りは正当です。
繰り返しますが、彼があなたに対して犯した罪は、罰せられて然るべきです。
しかし例えそうであっても、あなたは彼を殺害すべきではなかった」
「何で?何で殺しちゃ駄目なのよ?
あんた今、あいつは罰を受けて当然だって言ったじゃない。
あんな奴、殺されても当然よ。
それともあんた、あいつに同情しているの?」
「私が同情を禁じ得ないのは、彼ではありません。
あなたです」
「私?何で?」
「あなたが彼を罰するために、あなたの人生を犠牲にしてしまったからです」
「私の人生…」
「そうです。
あなたは彼を殺しただけでなく、彼を殺すことによって、あなた自身をも殺してしまった。
あなたは彼を罰するために、その様な姿になってしまった。
その姿はあなたの望んだものではなかったのかも知れない。
しかしあなたは最早、後戻りの出来ない場所まで来てしまったのです。
あなたは被害者なのに、自分自身のこれから先の人生を、自ら閉ざしてしまった。
私はそのことが、とても悲しい。
あなたが、そのような道に足を踏み込んでしまったことを、あなたのために嘆くのです」
「これは私じゃない。私じゃないの」
影は弱々しく抗ったが、林の追及は終わらない。
「そうです。
あなたではない。
それはあなたが、図らずも身に纏ってしまった、怒りという名のオーラに他ならない。
あなたはこの先ずっと、その禍々しいオーラを纏って生きていくのですか?」
「嫌だ。そんなのは嫌だ。
嫌だ、嫌だ、嫌だ、…」
「では今ここで、それを脱ぎ捨てましょう」
「どうやって?」
林の言葉に、影の声が戸惑いの色を帯びた。
「初めて私がお会いした時の、あなたを思い出しましょう」
「思い出す。私を…」