【31】怒れる魔人(1)

文字数 2,090文字

「暑っちいな、くそっ!」
駒場淳也(こまばじゅんや)はそう毒づくと、足元にべっと唾を吐いた。
手にしたスマホの時計を見ると、既に夜の11時を過ぎていたが、体感温度は昼間と大して変わらない程高い。

今日は散々な1日だった。
まず朝オフィスに出勤した途端、上司の草野から寝ぐせ頭を注意され、30分以上もあれこれ説教を喰らうことになったのだ。

説教の内容はいつもと大差なく、勤務態度が悪いだの、やる気が見えないだの、服装がだらしないだの、ぐだぐだと長いだけで中身のないものだった。
最後は、最近の若造はなってない的な、おっさん特有の決まりきった落ちだ。

――月曜日の朝っぱらから、うんざりさせるなよ。
――そんなんでモチベーション上がるとでも思ってんのかよ?

心の中でそう毒づきながらも、一応反省の素振りだけは見せておくしかなかった。
反抗的な態度を見せると、説教が延々と長引くからだ。

その後行った営業先では、請求書の些細なミスについて、経理担当者の中野から1時間近くもねちねちと嫌味を言われ続けた。
40過ぎてもまだ独身の、中野という、あのおばはんは、最初は淳也に色目を使ってきていたのだ。

淳也が得意先ということもあったので、適当に愛想を振り撒いていると、どうやらおばはんは勘違いしたらしく、ある日彼を晩飯に誘ってきたのだった。
さすがに淳也が断ると、その日から中野は、態度を豹変させた。

ことあるごとに淳也のミスをあげつらい、他の社員の見ている前で、そうやって晒し者にするようになったのだ。
堪ったものではなかった。

その日のミスも、元を質せば中野が出して来た嫌がらせの様に細かい注文が原因だった。
しかしそのことを主張すると、これも延々と嫌味が長引くので、諦めて恐縮した態度を取り続けなければならなかった。

あれこれあって、1日中気分が塞いでいたところに、止めを刺したのは美佐からの別れ話だった。
美佐とは3か月前から付き合っていたのだが、最近ちょっとしたことでギクシャクするようになり、会う回数も徐々に減っていた。

原因は美佐に言わせると、淳也の態度にあるらしい。
しかし美佐は、そもそもが馬鹿なので、彼のどこがどう悪いのか、言うことがさっぱり要領を得ない。
その日LINEで送って来た、最後通牒らしき文章も、意味不明で馬鹿丸出しだった。

1日中苛々し通しだった淳也は、そのラインを見てぶち切れ、勢いに任せて、
「お前みたいな馬鹿女は、こっちから別れてやるよ」
と、叩きつける様な返事を返してしまった。

そしてその後すぐに後悔した。頭の出来はともかく、美佐は結構見てくれの良い女だったからだ。
すぐに謝ろうとした時、「死ね、馬鹿」という返事が、美佐から返って来た。

それを見た淳也は急に彼女を引き留めるのが面倒になり、結局そのまま放置してしまったのだ。
しかし時間が経って考えると、やっぱり後悔する気持ちが湧いて来るのだった。

「まったく最悪の日だな」
淳也は再び、誰にともなく毒づく。

淳也が住む独身マンション近くの空き地に入ると、街灯の光が届いてなく真っ暗だった。
空き地のすぐ先に、4階建ての廃ビルが見える。

その少し手前にあるのが、彼の住むハイツだった。
その空き地はマンションの建築現場で、つい最近更地になったばかりだった。

一応立ち入り禁止なのだが、家に帰る近道だったので、今朝からこっそり通り抜けていたのだ。
更地と言っても砂利と瓦礫だらけで、歩くたびに結構大きな音がする。

淳也がスマホを見ながら歩いていると、背後で砂利を踏む音がした。
振り向くと、今通り過ぎた重機の後から、黒い影がのそりと出てくるところだった。

驚いた淳也が見ると、その影は身長があまり高くない割に、体全体の容量が異様に大きく、そのせいで実際よりもかなり大きく見えるようだった。
だらりと垂らされた両腕はアンバランスに長く、しかも頭部が2つあるように見えた。
淳也が恐怖の声を上げようとした時、影の腕が振られ、頭部を物凄い衝撃が襲った。
淳也はそのまま意識を喪失した。

淳也の意識が戻った時、そこは薄暗い場所だった。
どこかの室内のようだ。

先程の衝撃で朦朧としていた意識が、自分が今置かれている体勢を認識すると同時に、急速に回復して来た。
自分の体が、俯せの体勢で宙に浮いているように感じたからだ。
体の感覚が徐々に戻ってくると、誰かが自分の喉と足首を掴んでいるのが分かった。

「気がついたな」
背中、つまり淳也の上から、掠れた声がした。
その声には荒い息遣いを伴っている。

「お前が気がついてから、こうしてやろうと思ってたんだよ。馬鹿男」
声は相当の怒りを含んでいるようだった。

――最近どこかで聞いたような声だな。
まだ少し朦朧とした意識の中で、淳也はぼんやりとそう思った。

その時、喉と足首を掴んだ腕に力が籠められ、自分の体が腰を支点にして、徐々に曲げられていくのが分かった。
淳也は全身で抵抗を試みたが、彼を掴んだ腕はそれを物ともしない。

彼は漸く、自分がこれから何をされるのかに気づいた。
しかし喉を強く圧迫されているので、声すら出すことが出来ない。
やがて薄暗い部屋に、淳也の腰椎がゆっくりと砕けていく音が響いた。
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