【06-1】現場検証報告(1)

文字数 1,485文字

ヤードに出勤したフィリップ・バドコック警部は、上司のヴァスケス警視長に新たな事件について報告した。
しかしヴァスケスは、彼の報告を聞いて大きな溜息をつくだけだった。
もはや彼を叱咤する言葉すら出てこないらしい。

オフィスに戻って、溜まっている事務処理を漸く終えた時、タイミングを見計らったように部下の1人が開け放してあるドアを遠慮がちにノックした。
クリストファー・ウィットマンというベテランの刑事だった。

バドコックが目で促すと、ウィットマン刑事は張り出した腹を揺すりながら、ゆったりとした足取りでオフィスに入って来る。
「どうした?」と言いながらバドコックは、部下にデスクの前の椅子を手で勧めた。

肥満体のウィットマンは大儀そうに椅子に腰かけると、
「警部。実は今日の被害者に関して、ちょっと気になる点がありまして」
と言いながらジャケットの内ポケットを探り、年季の入った革の手帳を取り出した。
そしてそれを繰りながら報告を始める。

「被害者の財布に入っていたIDカードの情報では、彼女はネリー・クマール、19歳、インディア系のイギリス海外市民(BOC)です。現在ロイヤル(R)カレッジ(C)・オブ・ミュージック(M)(王立音楽大学)に通う学生でした」

バドコックは現場の状況を思い浮かべた。
記憶の片隅に、被害者の遺体から少し離れた場所に置かれていた黒っぽいヴァイオリンケースが蘇る。

被害者への感情移入は捜査に良い影響を及ぼさないと、これまでの経験から重々承知しているバドコックだったが、19歳の若さで理不尽にも未来を奪われた被害者を思うと、腹の底にしまい込んでいた怒りがまたぞろ込み上げて来て眉間に険しい皺が刻まれる。
彼の怒りの象徴だった。

そんな上司の様子を上目遣いに見ながら、ウィットマンは報告を続けた。
「両親とは先程連絡が取れ、モルグに遺体の確認に来てもらいました。
ネリー本人であることの確認は取れましたが、1人娘だったようですね。

母親の方が取り乱しちまって大変でしたわ。
何せ遺体の状況があれですから。
犯人の野郎を捕まえたら、絞め殺してやりたいですよ」

「刑事が滅多なこと口走るんじゃねえよ」
バドコックは釘を刺したが、部下が愚痴りたくなる気持ちも分かる。

ウィットマンもその辺りは察しているらしく、報告を続けた。
「司法解剖については父親の了解が得られたので、キングス(K)カレッジ(C)ロンドン(L)に送る手続きをしました。多分もう搬送されていると思います。」

「担当はブライアンの野郎か?」
「多分」

バドコックはブライアン・ケスラーの神経質そうな学者面を思い浮かべ、うんざりした気分になった。
ウィットマンも同様らしく、肩をすくめる仕草をする。
そんな部下をバドコックは顎で促した。

「ネリーは昨夜遅くまで、ヴァイオリンの練習で大学に居残っていたそうです。
進級のための実技試験が近いとかで。

一緒に居残っていた友人の証言が取れました。
それによると夜8時過ぎに2人で大学を出て、サウス・ケンジントン駅で別々の路線に乗るために別れたそうです。

その後ネリーは1人で自宅に帰る途中、あの路地で犯人の野郎に襲われたようですね。
あそこ駅からの近道で、ネリーはよく利用してたようです。

街灯がないので夜は暗くて人通りもほとんどない場所なんで、両親は大通りを通るようにと常々ネリーに注意していたらしいんですが」

そこで言葉を切ったウィットマンはバドコックの表情を覗ったが、反応がないのを見定めると報告を続けた。
「現場の実況見分は終わってます。
何しろこの雨ですから、えらく難儀しましたけどね。

残念ながら犯人の遺留品らしい物は、今のところ出てきてません。
ただね」
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