【16-2】九天応元会(2)

文字数 2,623文字

「永瀬先生と初めてお会いした日に申し上げましたように、私は成都大学に所属すると同時に、九天応元会(きゅうてんおうげんかい)の教主という立場にいます。

その私が今回、研究生として来日した背景と目的について、一度先生にご説明させていただきたいと思い、この様にお時間をいただきました」
永瀬が頷く。

「そもそも私が遺伝子工学を専攻した動機ですが、それは生物の進化のプロセス、とりわけ進化のトリガーとなる、遺伝子の突然変異について関心を持ったからなのです。

その当時の私は現在のように教団の中枢にいた訳ではなく、純粋な学問的興味から大学を選びました」
「つまり宗教とは関係のない動機だったということですか?」

「そうです。いつの頃からそのような興味を抱くに至ったのか、今では覚えていませんが、当時の私はどちらかと言えば宗教そのものに懐疑的で、教団幹部の祖父や父から見れば不詳の孫であり、不詳の子であったと思われます」

林はそこで一度、苦笑いのような表情を浮かべる。
「では今回の留学の目的も、林さんの個人的興味が動機なのですか?」

「個人的な興味も勿論あるのですが、それ以外にも我が教団の活動と関連する目的があります」
「それはもしや洗脳という様な…」

「いえ、誤解なさらないで下さい。
私共は、科学を宗教的手段として利用する意図は全く持っておりません。

ただ、我が教団が長年に渡って探求してきた事柄に関連することとして、先生方が研究されている大脳の仕組みと機能について知見を深めるために、既に自然科学の分野の素養を持つ私が、教団を代表して来たとお考え下さい」

「その、林さんたちが探求されてきた事柄というのは?」
永瀬は思わず問い返した。
既に林の話に引き込まれている。

「それをご説明するためには先ず、九天応元会の創設者であり、私の遠祖である林清虚(リンチィンシィー)についてお話しする必要があります。
以前ご説明しましたように、清虚は汪愈(ウアンユー)という道教教団の主催者に師事し、彼から教団を継承しました。

その当時の中国には儒仏道の三教に加え、様々な宗教が入って来ていました。
清虚はそれらの宗教が持つ、<神>という概念の多様性に強烈に魅かれたそうです。
やがて彼は教団の運営を幹部たちに任せ、1人西域へと旅立ちました」

「それは何故ですか?」
「<神>を探すためだと言われています」
「<神>を探すため、ですか…」

「そうです。荒唐無稽に思われるでしょうね、永瀬先生。
しかしその旅で清虚は、<神>に触れたと伝えられています」

「触れた?出会ったのではなく触れたのですか?
それは何か、異境の<神>についての所見を得たという意味でしょうか?」

「先生が言われるのは、宗教的な文物や見聞から得た知識によって、<神>についての何がしかの結論に至ったという意味ですね。
残念ながらそれは違います。彼は実在する<神>に触れたのです」
「実在する<神>ですって?とても信じられない」

「驚かれるのは無理もありません。
私が今お話ししていることが、先生の常識からかけ離れていることは十分に承知しております。
しかし一旦、<神>の存在を是認するか否かについては置いて、先に進めさせて下さい」

永瀬は彼の話す内容の意外さに驚きながらも、いつの間にか興味を覚えている自分に気づき、内心苦笑する。
「よろしいでしょうか?」
そう断って林は話を続けた。

「<神>に触れた際に清虚は、<神>に関するいくつかの知識を得ました。
それは所謂(いわゆる)神託のようなものではなく、<神>の本質に関わるものでした。

彼はその様な知識に触れることが出来る、精神的・肉体的な素因を持っていたようです。
西域から戻った彼は、旅で得た知識を元に<神>に関する研究を始めました。
その時から九天応元会(きゅうてんおうげんかい)は、修行の場と研究の場という、2つの顔を持つことになったのです。

図らずも<神>についての真理を探究する道が、我々が目指す(タオ)に通ずることを、清虚の得た知識によって知ったからです。
我々は連綿とその知識を積み重ね、1,100年経過した現在に至っています」

「そして貴方が現在教団を率い、その研究を受け継いでいるということですね?」
「そうです」と林は頷く。

「しかし私はやはり、<神>が実在していたということを容易に受け入れることが出来ません。
それは私が、自然科学の徒であるからでしょう。

勿論私は、自分が直接見たもの以外を信じないという、ある意味傲慢な意識でそう考えてるいのではありません。
林さん、貴方の仰る<神>というものが、具体的にイメージ出来ないからです。

貴方の教団は、道教であると仰った。そうですね?」
林は黙って首肯(しゅこう)する。

「では林清虚さんが触れた<神>というのは、道教の<神>を指すのでしょうか?
確か道教の<神>は老子でしたか。

私の乏しい知識では明確なことは言えませんが、老子は紀元前の人物だったと記憶しています。
清虚さんはその老子と、1,100年前に邂逅したということでしょうか。
それはやはり、あり得ないことだと言わざるを得ません」

「どうやら、先生を混乱させてしまったようですね。
申し訳ありませんでした。

確かに太上老君――老子は、現在ほとんどの道教宗派で神格化されていますが、厳密には所謂(いわゆる)<神>ではありません。
勿論過去現在、またいかなる宗派を問わず、殆どすべての道教は、老荘を代表とする老家思想をその源としています。

しかし老子は、宗教としての道教の始祖ではありません。
道教が宗教として展開していくプロセスで、<神>の如く尊崇される存在になったのです。
つまり老子は、イエスやブッダの様に、教祖的存在として人々を導き、やがて信者から<神>として、または<神>の如く尊崇されるようになった訳ではありません。

また古代ギリシアのオリュンポスの神々の様に、その存在自体が<神>として定義された存在でもありません。
複雑な話ですが、お解りいただけますか?」

「解ります。
<神>として崇拝されるに至る、プロセスが異なるということですね?」
と、永瀬は肯いた。

「仰る通りです。
そして林清虚がかつて邂逅し、以来我が教団の研究の対象となっている<神>とは、キリストやブッダ、オリュンポスの神々を含む、より普遍的な意味での<神>なのです。
それをご理解いただくために、私自身が体験してことについてお話ししたいのです。
少し長くなりますが、よろしいでしょうか?」

永瀬は肯いて林を促した。
「ありがとうございます」と言って林は、11年前に彼の身に起こった出来事について語り始めた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み