【17-2】林海峰の回想―父、林紫嶺(2)

文字数 2,199文字

その刺激は誰かが直接彼の心に直接呼び掛ける声のようだったが、小さすぎてその意味を理解することが出来なかった。
ただその声がした方向だけは、明瞭に認識することが出来た。

誰かの言葉が、聴覚を通さずに直接意識を刺激する――その様な現象を、海峰は幼少期から、時折体験していた。
しかしそれが非常に特殊な状況であることに、幼かった彼は気づいていなかった。

そしてその様な現象が起こった後には、必ずと言ってよい程、今いる場所とは違う世界に自分がいることに気づくのだ。
それはほんの僅かな間の出来事だったのだが、違う場所であることだけは、はっきりと分かるのだった。

1人で遊んでいる時、突然誰かの言葉が頭の中を通過して行く。
周囲を見回してもそれらしき言葉を発する者は誰もいない。
そして今まで自分がいた場所とは別の場所に自分がいることに気づく。

幼かった海峰にとってそれは、単に不思議な体験に過ぎなかった。
しかしそれが、自分にだけ起きている現象であることに気づいた時、彼は底知れぬ恐怖を感じ、怯えたのだった。

彼が何かに怯えている様子に、最初に気づいたのは母だった。
海峰の母はまだ幼かった息子から、彼を苛んでいる恐怖の原因について辛抱強く話を聞いてくれた。

話を聞き終わった彼女は、彼に聞こえる声が決して幽霊や怪物の声などではなく、その声に怯える必要がないと、我が子に優しく言い聞かせた。
そしてその声が聞こえることは彼と母だけの秘密にして、誰にも言わないでおこうと言ったのだった。

何故それを秘密にする必要があるのか、母は理由を告げなかったが、海峰は母との約束を守って父にもそのことを告げなかった。
その後も姿なき者の声が聞こえてくることは時折あったが、成長するにつれてその頻度は減っていった。

そしてその日までの10年以上もの間、一度もその声を聞くことがなかったため、やがてその奇妙な体験は彼の記憶の片隅へと追いやられてしまっていた。
それがその時、突然復活したのだ。

既に成人していた彼は、無暗にその現象に怯えることはしなかったが、この機会にその原因を(つまび)らかにしたいという欲求が、彼の心の中で首をもたげたのだった。
海鋒は寝台から立ち上がり部屋を出ると、声のした方向へと屋敷の回廊を進んだ。
今はまだ声が頭に響いて来るだけで、違う世界に行くことはなかった。

その時また、声が届いた。
それは先程よりかなり明瞭で、はっきりと彼を呼んでいるようだった。

その声に誘われるまま、海峰は屋敷裏の庭園に足を踏み入れた。
もはや向かう先は明確だった。

やがて庭の奥、教団本部の敷地内に続く裏山に穿たれた、天然の洞穴の前に海峰は立った。
入り口には堅牢な鉄格子が填められている、牢獄のようなスペースだった。

洞穴の中から凄まじい臭気が漂って来た。
中にいる人物が発する悪臭だった。
その人物とは、1か月前から牢内に幽閉されている海峰の父、林紫嶺(リンズゥリン)だった。

父が幽閉された理由について、教団の最高幹部の1人である祖父も、他の幹部たちも、詳細は一切語らなかった。
ただ幽閉されたその時点で、海峰の父は既に廃人となっていたらしい。


らしい――と言うのは、その様な噂を漏れ聞いただけで、海峰が直接父を見た訳でなかったからだ。
紫嶺は幽閉される一か月程前に失踪し、成都市に隣接するチベット族自治州を放浪しているところを保護されていたようだ。

彼が何故失踪し、1か月間どのように過ごしたのかは、一切不明だった。
既に廃人となっていた父から、その理由を聞くことは、最早不可能だったからだ。

父の帰還を知った時、海鋒は安否を気遣って、大学の寮から急遽教団本部に戻った。
しかし祖父は一切の理由を告げることなく、彼が父と会うことを禁じたのだった。

父は日々の食事は与えられるが、牢から出されることは決してなかった。
海峰以外の教団関係者たちも、林紫嶺との一切の接触を禁じられていた。
食事の世話も幹部たちが交代で行っているようだ。

牢に至る道筋には、行く手を塞ぐようにして設置された詰所があり、普段は2名の不寝番が、交代で駐在して人の出入りを見張っている。
しかし何故か今日に限っては、彼らの姿が見えなかった。
理由は解らないが、そのおかげで帰還した父に接触する機会が、初めて海峰に訪れたのだ。

牢内は暗かった。
灯りはないようだ。

その暗さに目が慣れてくると、奥に(うずくま)っている、人らしいシルエットが見えてきた。
その姿は、闇に溶け込んだように曖昧模糊としていて、まるで実体のないものの様にも見えた。

海鋒はその影に向かって、「爸爸(パーパ)(父の意)」と呼び掛けてみる。
しかし返事はおろか、いかなる反応も父からは返ってこなかった。
繰り返し呼び掛けたが、結果は同じだった。

父は既に生きていないのではないか――そんな考えが頭をよぎる。
――だとすれば祖父たちは、何故父をこのまま放置しているのだろう?
――そこに何か意図があるのだろうか?
――そんなことをして何の意味があるのだろうか?

取り止めのない思考が、海鋒の頭を駆け巡る。
波状的に襲ってくる強烈な臭いに耐えながら、海峰はしばらく牢の奥を見つめていた。

やがて海峰は、闇の中にうずくまる影の肩の辺りが、ほんのわずかだが上下していることに気づいた。
それはおそらく、父が呼吸をしている証だろう。

――爸爸は生きているのだ
そう思った海峰が、影に向かってもう一度声をかけようとした時、突然彼の意識は暗転した。
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