【33】怒れる魔人(2)
文字数 2,409文字
その公園は加奈子の家からは15分程離れた場所にあったのだが、親の目が届きにくいという理由だけで、2人がよく待合わせに使う場所だった。
しかし付近は住宅が疎らだったので、夜は人通りが少ない。
しかも公園は周囲を廃ビルやマンション建築前の更地で半ば囲まれていたので、夜に女子高生が1人でいるには少々物騒な場所だった。
今夜の加奈子はいつになく不機嫌だった。
待ち合わせの9時をとっくに過ぎているのに、浩司が現れる気配がなかったからだ。
待ち合わせ時刻に来ないのはいつものことなのだが、今夜は一段と蒸し暑く、Tシャツが汗で体に張り付くのが気持ち悪かった。
そして蚊がぶんぶんと飛び回って、気が付くとあちこち食われているのも、加奈子を不機嫌にしていた。
――浩司が来たら文句言ってやろう。
そう思っていると、また二の腕に蚊が止まった。
反射的に叩くと手につぶれた蚊の感触が残ったので、慌ててベンチの横に設置された水道に向かう。
蛇口を捻り、真っ赤な吸いたての血と混じって掌にべっとりと着いた蚊の残骸を洗い流していると、
「加奈子、何やってんの?」
と、背後から声がかかった。
振り向くと伊藤浩司の厳つい顔が、加奈子を見下ろしている。
浩司はかなり上背があり、体つきもごついので、小柄な加奈子と並ぶと大人と子供の様に見える。
「浩司、遅い」
加奈子が文句を言うと、
「現場が長引いたんだから、しゃあねえだろう」
と、不貞腐れた返事が返って来た。
浩司は加奈子の中学校の先輩で、年齢は2歳上だった。
そして彼は近隣では有名な不良少年だった。
同世代の中では体格が飛び抜けて大きく性格も狂暴だったので、学校内外での暴力沙汰が絶えず、当然のことながら学校一の問題児として、教員たちから腫物を触る様な扱いを受けていたのだ。
高校には一応進学したのだが、暴力事件を起こして1年も経たないうちに退学処分になったらしい。
その後は不良仲間の先輩の伝手を頼って、鳶職になったと加奈子は聞いている。
尤も、鳶職が具体的にどの様な職業なのか加奈子は知らなかった。
浩司の言う現場が、何かの工事をしている場所であることを辛うじて認識しているだけだった。
加奈子が浩司と付き合い始めたのは、彼女が高校1年生の時からだった。
契機はよくあるナンパである。
休みの日に街をぶらついている時に、ナンパする相手を物色していた浩司に声を掛けられ、そのまま成り行きで1年以上の付き合いになる。
浩司の顔立ちは、
「遅れるんだったら、LINEぐらいしてよね」
加奈子がそう言い募ると浩司は、「悪かったよ」と言いながら加奈子を抱き寄せ、強引にキスをした。
ムードも何も関係ないのはいつものことなのだが、その夜はきつい汗の臭いがしたので、
「ちょっとお、浩司汗臭い」
と言って、両手で突き放すようにして体を離した。
その時浩司の体越しに、何かが近づいてくるのが見えた。
それは何か塊の様なものが動いているように見えたが、よく見ると手足があり、何故か頭が2つあるように見える。
加奈子が「ひっ」と小さい悲鳴を上げたので、浩司もその視線の先を振り返った。
その時それは、既に浩司のすぐ後ろまで来ていた。
「何だ、てめえ!」
浩司がそれに向かって凄む声が、心なしか震えているように聞こえる。
そう思った瞬間、浩司は何かに頭を打たれ、どさりという音を立てて地面に倒れ込んだ。
浩司の姿が目の前から消えた後、間髪入れずに彼女の側頭部に強烈な打撃が加えられた。
そしてそのまま加奈子は失神した。
どれくらい気を失っていただろう。
加奈子は、凄惨な悲鳴を聞いて意識を回復した。
気がつくとそこは薄暗い建物の中だった。
彼女が音のした方に目を凝らすと、先程見た大きな塊のような人間が立っていて、その足元に人のものらしい影が横たわっている。
そしてその影から断続的な悲鳴が聞こえてくるのだ。
加奈子が目を凝らして見ると、その影は痙攣するように蠢いていた。
あれは多分浩司だろう――と、加奈子はぼんやりと思った。
彼女の意識はまだ、完全に回復していないようだ。
するとその時、立っていた塊が浩司らしい影を力いっぱい踏み始めた。
それが脚を振り下ろす毎に、何かが潰れて周囲に飛び散る耳障りな音が響き渡る。
何度かその動作を繰り返した後、塊は踏むのを止めて床に横たわった影を見下ろした。
もはや影からの悲鳴は聞こえてこない。
――浩司、死んだんだ。
加奈子は朦朧とする意識の中でそう思った。
塊は足元に横たわった浩司の様子を確認するように見下ろしていたが、やがて加奈子の方に近づいてきた。
そして加奈子の髪を乱暴に掴んで顔を持ち上げると、
「気が付いたな?」
と掠れた声で言いながら、顔を近づけて加奈子を覗きこんで来た。
暗くて顔全体はよく見えなかったが、大きく見開かれた目が異様に血走っているのが、物凄く怖かった。
顔の横に突き出たもう1つの頭には、目も鼻も口も、毛髪すらなかった。
加奈子は悲鳴を上げようとしたが、喉が引きつって声が出ない。
すると怪物が言った。
「お前笑ったな?私を見て笑ったな?」
目の前の怪物が何を言っているのか、加奈子には全くわからない。
しかし怪物は加奈子に対して怒っているようだった。
そう思った加奈子は、
「ひゅ、ひゅるして。ごめんなさい。
許して。お願いします」
と怪物に懇願する。
しかし加奈子の声は、怪物の耳に届いていないようだった。
「お前笑ったろう?この口で笑ったろう?この口で、ええ?」
そう言いながら怪物は、加奈子の後頭部と顎を掴んだ。
そしてゆっくりと顎を引っ張り始める。
すぐに顎が外れる激痛が加奈子を襲った。
しかし怪物の手の動きは止まらなかった。
自分の顎が、力任せに引きちぎられていく音を聞きながら、加奈子は失神した。