【12-3】来訪者

文字数 1,990文字

永瀬が怪訝に思う一方で、梶本は、ああ――と納得した顔をして、
「助教の梶本です。こちらこそよろしくお願いいたします」
と、こちらも丁寧にあいさつを返した。

そして、
「林さんは私のフルネームをご存じなんですね?
永瀬先生からお聞きになられたんですか?」
と少し驚いた様子で尋ねた。
彼女も永瀬同じ感想を持ったようだ。

その問い林は、
「先程富安先生のお部屋で待機している間に、職員名簿を見せて頂きました。
これからお世話になる先生方のお名前を知らないのは、大変失礼なことと思いましたので。

蓑谷明人(みのやあきひと)先生はお食事ですか?」
と、相変わらずの笑顔で答える。
それを聞いて梶本は「はあ」と曖昧に答えた。

――まったく行き届いた人だなあ。
永瀬はそう呆れつつ、
「林さんの席だけど、3研の空きデスクでいいかな?」
と梶本に訊く。

研究室内の席の配置は梶本の役割なので、彼女に確認する必要があったからだ。
3研というのは、5つある研究部屋の内の3号部屋の略だ。
永瀬のデスクもその部屋にある。

「はい。今のところ3研しか空いていないので、そこでお願いします。
夏休み中に、また席替えも考えますので」

「ありがとう。じゃあ、林さん。デスクに手荷物を置いてランチに行きましょうか。
まだですよね?」
「ありがとうございます。ご一緒させていただきます」

「梶本さん、ご飯の途中ですまなかったね」
と言って永瀬は軽く手を上げ、話を切り上げた。
梶本はまた、ぺこりと行儀よくお辞儀をした。
林も丁寧にお辞儀を返す。

3研の空きデスクに荷物を置くと、永瀬は林と連れだって学内にあるカフェテリアに向かった。
学生や職員のための食堂なので種類も豊富で値段も安い。
林の経済状況が解らなかったので、無難な選択と言えるだろう。

昼休みも終わりに近い時間のためか、カフェテリアはそろそろ空き始めていた。
大きな厨房と繋がるカウンターで、永瀬はいつもの日替わりランチを注文する。

特に好き嫌いがある訳ではないので、日替わりにしておけばメニューの選択に悩まずに済むからだ。
今日のメインはハンバーグだった。
林を見ると、永瀬と同じものを選んでいた。

ちょうど中庭に面した大きな一枚ガラスの窓際の席が空いていたので、そこに座ることにした。
ガラス越しに見える芝生広場には日差しが燦々と照りつけ、見るからに暑そうだった。
そのせいか歩いている人はまばらだ。

広場の中央には大きな桜の木があり、木陰に座って語り合っている学生たちがいた。

初夏のこの時期には既に桜の花は散り、緑の葉が生い茂っているのだが、春先の満開のシーズンには淡いピンクの花びらが、巨木を覆いつくして見事に咲き乱れる。
それは毎年受験生向けのパンフレットにも掲載されている、キャンパスの象徴的な風景の1つだった。
そして永瀬も、ここから見るその景色が割と気に入っているのだ。

向かい合って席を取ると永瀬は、「どうぞ」と林に勧め、自分も箸を取った。
「頂きます」と林は、箸を取る前に行儀よく手を合わせた。
居住いの良い男である。

2人とも無言のまま箸を動かし、10分程でプレート上のランチを大方平らげた。
永瀬は食事をしながら人と話すのが苦手だったので、林が無言で食事を優先させてくれたのはありがたかった。
人によっては、食事中にやたらと話しかけてくるので、辟易とさせられることも多いからだ。

最後に冷茶を飲み干すと、林もちょうど食べ始めるときと同じ様に、「ご馳走様」と言って手を合わせるところだった。
ひょっとしたら林は、自分の食事のペースに合わせてくれたのかも知れないなと永瀬は思った。

そういうことを、さらりとやってのける気づかいと器用さが、目の前に座っている男から強く感じられたからだ。
――不思議な雰囲気の人だな。

そう思うと、俄然と林に対する興味が湧いて来る。
「林さんは大学、成都大学でどのような分野を専攻されているのですか?」

永瀬が訊くと、
「私の専攻は生化学です。主に遺伝子工学を研究しています」
と、林は姿勢を正して答えた。

その答を意外に思った永瀬は、
「遺伝子工学ですか?」
と聞き直した。

大脳生理学とは関連が全くない訳ではないが、少し乖離した分野だと思ったからだ。
その心中を察したように林は続けた。
「はい、そうです。しかし今回蔵間先生や永瀬先生にお世話になる目的は、実は私の大学での研究とは少し別のところにあるのです」

「別の目的ですか…」
「はい、そうです。しかしその目的をご理解いただくためには、私の背景について少し詳しくお話しした方が良いと思うのですが、構いませんか?」

「林さんの背景ですか。ええ、是非お聞かせ下さい」
興味をそそられた永瀬は、そう言って林を促した。

すると林は穏やかな笑みを浮かべながら、驚くべき言葉を口にした。
「私は現在、中国に拠点を置く宗教団体の教主の座にいます。その団体の名称は<九天応元会(きゅうてんおうげんかい)>、大平道を起源とする道教の一流派です」
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